不思議なお話NO20 時間と空間

 今回は長年の懸案である時間について考えてみたいと思います。不思議なお話No8「僕が時空を越えた瞬間」で次のように書きました。
『僕は最近、過去、現在、未来は同時に存在しているのではないか、また時間は、個々人の独立した属性ではないかという考えに傾いています。そして、現在の行動によって未来が書き換えられてゆく』と。
 また、「予言なんてクソクラエ」の第四章で予言の原理については以下の説明でお茶を濁しています。
『ユングは、集合的無意識は祖先にまで遡る叡智を含むと言うが、これが事実なら、そこはまさに知識と情報の宝庫である。ここにアクセスすることにより、地球の地殻の変動周期も、地球物理学、地質学や地震学等の最新の科学情報や知識をも引き出せ、大地震のような災害の発生時期、規模、被害状況の予測も可能となる。
 また集合的無意識という大海に浮かぶ個々人の意識から、世界中で起きている政治的陰謀やテロの情報も事前に入手可能ということになり、偶発的な事故以外の予言は、ある程度理解の範囲内に入ってくる。』
 この文章の、どこがどうお茶を濁しているかといいますと、最後の方『偶発的事故以外の予言』は説明出来るとしている点です。つまり、『偶発的事故』の予言はこれでは説明できないのです。
 以前にも書きましたが、この「予言なんてクソクラエ」の前のタイトルは、「神の舞う空」だったのですが、実はその前もありまして「神の領域」というタイトルでした。この時点の僕は、未来は神の領域と認識しており、恐怖の予言を流布する輩を、神の領域を侵す不埒者として糾弾する意図を以て、この小説を書きました。
 ですが、特殊能力のある方々は、いとも簡単に未来の出来事、つまり先ほど触れた未来に起こる「偶発的事故」を、まるでその情景を見ているごとく述べていましたし、僕自身、あたかも走り幅跳びの助走のように、新聞に掲載される四コマ漫画を前もって見るという体験をした後、一気に半年後の未来に飛んでいます。(詳細は不思議なお話No8「僕が時空を越えた瞬間」をお読み下さい)
 この時空を越える体験を通して或る疑問が、つまり、どうも未来は「神の領域」というほどの大袈裟な領域などではなく、意識そのものに属しているか、或いは意識が映し出しているだけではないかという疑問が生じたのです。あの時、妄想に誘発されたとは言え、僕の意識は極度の集中力を発揮していました。
 そして、その情報を得るために僕の意識が未来の自分の意識に飛んだと考えれば、時間というのは自分の意識と深く関係したものであることが分かります。また、それが通勤電車の中で起こったことを考慮すれば、時間と同じように空間も同様だと言えるのです。つまり、僕が未来に飛んでいた時間は、空間も含んでいたわけですから。
 このように考えてくると、少し(どころではないか?)飛躍しますが、時空は僕たちの意識がそれを認識することによって生じているとも考えられるわけです。そして意識の有り様を変えることにより、どのように変えるかは分かりませんが、僕がそうしたように未来へ行くことも、超能力者がよくやるように未来を覗くことも可能だということになります。
 では、逆に過去へ行くことも可能なのでしょうか。誰にでも消し去りたい過去が一つや二つあるはずです。僕の場合、手足の指の数では足りないくらいですが、それを過去に戻ってやり直すことが出来るのでしょうか?もしそれが出来るなら、バラ色の未来が、お望みのままということになります。
 僕はそれは出来ないと思うのです。何故なら、今の意識は過去の蓄積によって形作られています。それによって生じた諸々の問題を抱え、それにどう対処してゆくかが僕たちに与えられた試練ですから、それから逃れることは出来ません。従って因果律は不可侵だと結論するしかないのです。
 これに対し、未来は定まっていないからこそ、今という時の意識の有り様によって道が開かれか、或いは閉ざされるのか決まってきます。つまり、与えられた諸々の問題に対して、どう対応してゆくかによって未来は描き替えられるのです。

 別の見方をするなら、過去こそ、今ある試練を作り出した不可侵な「神の領域」ではないかとさえ思えます。人は常に『今』ある自分と向き合って生きてゆくしかありません。『今』ある自分の意識は同時に存在する過去・現在・未来によって成り立っているのです。
 高村女史(仮称)が、その講演会で、相談者には一言も喋らせることもなく、いきなり相談者を取り巻く人間関係から相談事の核心に至るまで詳細にアドバイスが出来たのは、女史の意識が相談者のそれに深く入り込んだことを意味します。(不思議なお話No8参照
 また、女史は僕の町で起こるガラス職人の事故を予言しました。恐らく僕の必死の思いを哀れんで、巨大地震が起こる寸前の出来事を僕に教えてくれたのだと思うのですが、その時、女史は僕を見詰め、僕の意識に含まれる未来を透視したからこそ、僕の町で起こる出来事を予言できたと考えられるのです。

 さて、先ほど、僕は『時空は僕たちの意識がそれを認識することによって生じる』と述べました。では、意識が時空を認識しなければ、時間が止まり、この現実世界もなくなってしまのでしょうか?

 実を言いますと、僕はそういう存在を長年見続けてきました。晩年の父がそうだったのです。危篤に陥って意識が混濁していたわけではありません。意識ははっきりとしていたのですが、父の目は、病室にいる自分の現実を捉えてはいなかったし、今という時間も止まっていたのではないかと思うのです。一点を見つめ続ける父に話しかければ、ふと我に返って返事をしますが、一瞬で自分の世界に戻ってゆきました。
 父は脳梗塞で倒れて以来、体の自由を奪われました。80歳になるまでテニスを生き甲斐にし、常に活動的であった父にとって、その現実は受けいれがたく、耐えられないことだったと思います。しかし、どんなに厳しい現実であったとしても、人はそれを受けいれざるを得ず、その失意を克服出来ないのであれば現実から逃れるしかありません。つまり、今という時を止めてしまい、過去に生きるということです。

 ところで、いきなり話が変わりますが、父は戦時中、整備兵として飛行機に乗って戦地を飛び回っていました。しかも、ジェットエンジン付きの飛行機です。皆さんは日本にジェットエンジン搭載の飛行機があったなんて知ってました? でも、ジェット燃料があったのは最初の頃だけで、後半はガソリンだけで飛んでいたそうです。
 さて、整備兵は離着陸時以外は暇なので、左右の側方銃座と後方にある銃座を飛び回り、来襲する敵機に機銃を浴びせるのが役割でした。戦闘が終わり、飛行場へ戻れば、パイロットと同じように白い絹のマフラーをなびかせ、タラップを降りるのだそうです。
「あのころの、俺って、かっこよかったなー」
とは、元気だった頃、食後に一服しながら、父が目を細めて口にした一言です。
 またこんなこともありました。病室で一点を見つめていた父が、ふと我に返り、僕に尋ねたのです。
「おい、淳・・・俺の飛行機はどうなった? あのジェットエンジンのついた奴」

 僕は思うのです。父は晩年、栄光に包まれた自分の過去の世界で過ごしていたのではないかと。そこは、この現実世界同様のリアルな映像を父の網膜に映し出し、その世界で若かりし頃のかっこういい自分が精一杯生きている、そんな過去の時空の中で生きていたのでは、と想像してしまうのです。
 過去は不可侵の神の領域であるとともに、人にとって癒しの領域でもあるようです。懐かしい楽しい思いではそれだけで心を和ませてくれますし、年と共に厭な思いでは消えゆきますから、しまいには楽しい思い出でいっぱいになるのでは、と思ったりします。僕は、父がそんな中で、死を迎えたと思いたいだけなのかもしれませんが・・・。
 最後に、父らしい一言をもってこの文章を終わりにしたいと思います。今回のテーマとは全く関係ありませんが、一風変わった可愛らしい父を皆様に知ってもらいたいのです。
 例の側方銃座・後方銃座の機銃に関して父が漏らした言葉です。
「あれって、ちっとも当たらなかった」
ですって。

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