不思議なお話NO9 僕の臨死体験

  申し訳ございませんが、不思議な話No8を読んでいない方は、それをご一読なさってからこのNo9をお読みいただけないでしょうか?面倒でも、よろしくお願いいたします。

  今から18年前に書いた最初の小説の中に、その当時経験した臨死体験の記述があります。このHPの掲載小説「無明のささやき」第十一章でも、主人公が自殺を試みる情景を描いていますが、それはこの時の体験に基づいています。
  この小説の中で、主人公が亡母の声を聞いて、「分かったよ、お袋、死ぬまで生きてやる」と言って自殺を思いとどまりますが、これはどんなにい苦しくとも、人は与えられる死が訪れるまで生きなければならないこと、そして自殺は悪であることを言いたかったのです。

  不思議なお話No8「僕が時空を越えた一瞬」で、僕が日本列島壊滅の予言を信じてしまい、恐怖に駆られて右往左往したことを述べましたが、この臨死体験は、その直後に体験しました。そこに不思議を感じたのです。
 何かが僕に死とはこういうものだと教えてくれたうえで、死を徒に恐れてはいけないと示してくれたような気がしたのです。僕は一生懸命生きて死を迎えた人々が置かれる魂の状態を体験したと思っています。
  ソクラテスは「死とは善きもの」と語っていますが、その根拠は示していません。しかし、「善く生きること」を心がけて来た人は死を恐れる必要はない、と断言しています。僕はこの臨死体験を通してこのソクラテスの言葉を信じるに至りました。

 「無明のささやき」の記述より、やはり体験直後の記述の方がよりリアルな感じがしますので、ちょっと長いですが、ここに引用します。

  主人公島野は、深夜1時過ぎ、泥酔した状態でサウナを訪れます。サウナの受付の爺さんからそれを見とがめられますが、泊まりたい一心で島野は呂律の回らないながら答えます。以下、小説から引用します。

「ええ、ふ・・・ふ、、風呂、風呂には入りません。も、も、もう、ただ寝たい・・だけですから。」
「いやだね、まともに口をきけないんだから。本当にそうしてくれよ。そんなに飲んで、サウナなんかに入ったらそのままあの世行きだからね。分かったね。」
睨みつけて念を押すので、島野も神妙にうなずいて金を払った。ロッカー室に入り、お仕着せに着替えるとまっすぐ睡眠ルームに直行し蜂の巣のような寝床に潜り込んだ。
  すぐに眠れるかと思っていたが、妙に意識がはっきりとしていて眠気はない。それに何か引っかかるものがった。あの老人の言葉である。泥酔してサウナに入ったらあの世行き?  島野はそのあまりに簡単な死に方が気に掛かってしかたなかった。
  そんなことで死ねるのか。もしかしたら、今まで死を難しく考え過ぎていたのかもしれない。もっと身近なものだったのだという新鮮な思いに囚われた。
  それもいいか。その方が楽かもしれない。苦しまずに、苦労ばかりのこの世ともおさらば出来る。むっくりとベッドから起き上がり、階下のサウナに降りていった。

  濛々と湯気の煙る風呂場は、ざーっという水の流れる音と機械の唸る音で溢れていた。人の気配はない。すぐさま熱い木戸を押しサウナに入り込み、一番高い位置に腰掛けた。むっという熱気が鼻を刺激し、くらくらというめまいを感じた。しかし、まだまだと思い熱気の中でじっと耐えた。
  べっとりと汗が体を覆い、次第に玉となって流れ始める。10分ほど我慢して外に出ると水風呂に飛び込んだ。冷たい水が何とも言えず心地良い。頭がぼーとしてきたが、まだ何の変調もない。再びサウナに入った。今度はめまいが前より一層ひどく、そして長く続いた。また10分間、時計と睨めっこをして、今度は水風呂にゆっくりと入った。
  変化は動作が緩慢になっていることぐらいだ。サウナと水風呂の往復を何度繰り返したかは覚えていない。ただ、何も起こらないのにがっかりして、島野はこれで最後にしようと水風呂から立ち上がりサウナに入っていったことだけは覚えている。記憶しているのはそこまでだった。

  水面を斜めに見上げていた。蛇口から水滴が落ちている。同心円状の波が幾重にも広がり、やがて消えてゆく。そんな繰り返しをぼんやりと見ていた。しーんという静寂に包まれて体がゆったりと漂い、首が心なしか左右に揺れている。意識が徐々に目覚め始めているようだ。
  ぼんやりと視野に入っていたものの輪郭がじょじょに現実に重なってゆく。まわりは鮮やかなブルーのタイルに取り囲まれ、それを満たした透明な水がきらきらと輝いて見える。両腕は斜め後ろに広げられ、仰向けでふわりふわりと漂っている。
  どうやら、ここは水の中のようだ。ふと息をしていないのに気付き慌てて口をぱくぱくさせようとしたが、どうも要領をえない。と言うよりあまり意味がないようだ。何故なら苦しくないのだから。むしろ気持ちが良い。体全体を心地よい快感が包んでいる。そしてその感覚はじょじょに増している。これは夢なのかであろうか。
 島野は、朦朧とした感覚がゆっくりと醒めるに従い、これは夢ではなくリアルな現実であるということを強く意識していた。しかし、水のなかで漂っているという信じられない事態をどう理解すべきなのか戸惑っていたのだ。とにかく、息もせず水の中にいるのだから。
  いや正確に言うなら息をしているのか否か自覚できない。意識はぼんやりとしているのだが、視覚だけは妙にはっきりとしている。ゆっくりと回りを見渡していると、不意に心に不安が広がりぶるっと悪寒が走った。しかし、それは一瞬で、すぐに快い感覚と安らぎがその不安を優しく包み込んでゆく。この得も言われぬ感覚は一体何なのだろう。
  かなり前から、これは生と死の狭間にいるのかもしれないという漠然とした思いがあったことは確かだ。突然襲った不安、つまり死を意識したからに他ならない。しかし、今その不安は消えつつある。しばらくそこに留まっていたいと思った。
 今の状況から逃れるのは、そう難しいことではない。ただ立ち上がればよいのである。漂っている手を風呂の底に着き、体を持ち上げればそれですべては終わる。実際に手で底のタイルに触れると、体が浮くのである。簡単なことなのだ。しかし、このままでは死ぬかもしれないという恐れを心のどこかに抱きつつ島野はそこに停どまり続けた。
 その心地よさが更に快感へと高まって行く。島野は目を閉じて感覚を研ぎ澄ませ、脳細胞全体でそれを受け止めた。彼はその恍惚とした感覚の中に身をゆだね、いつまでも漂っていたかった。エクスタシーの本来の意味は『魂の旅』だという。この感覚は、まさにそのエクスタシーであった。
 この不思議な感覚をどう説明すればよいのだろう。試みに表現するなら、まず体の重みがが全く感じられない。それは水中であることを考慮すれば不思議とはいえないかもしれない。しかし、肉体の感覚はあるにはあるが、実感のない、或は外界と体の皮膚との隔たりが全く感じられない、つまり体が溶けて外界と混じっている、そんな感じなのである。
 なによりも心を奪われたのは、得も言われぬ甘美なその感覚である。しまいには死に対する恐怖はまったく無くなっていた。いや、むしろ死と引き換えであったとしてもここに停どまっていたかった。それほどの悦楽がこの世に存在すること自体信じられない程である。
 島野が今感じている悦楽は、肉体及び精神の両面であろうか。いやそれとも少し違うようだ。むしろこの場合、精神という言葉はぴったりこないような気がする。それが介在しない世界、言ってみればその対局にある重たい肉体を脱ぎ捨てたような解放感、それともう一つ何か別のもの、つまり精神を形成した根本もの(魂のようなもの)があるとすれば、それが自由を得たことによる歓喜、普段は意識していないが、本来的に自分自身の内に在るものが涌き出るような何とも言えず新鮮な感覚である。
 ふと思い立って、手を底に着いて浮き上がり顔を水面からだしてみた。何も変わっていない。がらんとした空間に機械と水の流れる音が充満し、静寂に馴らされた島野の耳を襲った。耐えられずに耳を塞ぎ、目をつぶった。
 気がつくと再び水面下にいた。するとあの悦楽は前よりも強くなっている。もう起き上がることさえ億劫になってしまった。全てに満ち足りた思いが体を支配し、その思いが物質である肉体を溶かしてしまうかのようだ。何という悦楽だろう。今度は完璧に埋没する予感がした。もうどうなってもかまわない。その感覚に身を任せるために目を閉じ、邪魔な意識を遠おざけた。

 しばらくして、『あんた、いいかげんにしなさいよ』と言う妻の低い声が聞こえた。ぶるっと、体を震わせ辺りを見回した。見えるのは水色のタイルだけだ。しかし、この声が聞こえたのだから、もう起き上がらざるを得ない。手を底についてゆっくりと水面に顔を出した。
 そこは、ザーという水の流れる音、機械の唸る音に溢れていた。島野は静寂の世界から現実の世界に戻ってきた。水風呂から出て、鏡の前に座った。体が冷え切っていた。お湯のシャワーで体を暖めた。鏡を見ると自分の青白い顔が見えた。じっと見入るが、焦点があわない。いや、そうではない。何とも奇妙な現実がそこにあった。

 焦点は合っているのだ。要するに、自分の体の一部である目で、それを見ていないのだ。鏡の中の自分の目を見詰ようとするが、視線が合わない。頭の10センチくらい上から自分の目を見ているのだ。時計を確認すると、時間はサウナに入ってから30分しか経っていない。じっと鏡を見詰めていたが、鏡の中の自分の目と視線を合わすのにやはり同じくらいの時間がかかってしまった。

 以上が僕の体験した全てです。これを皆様がどう解釈するかは皆様に任せます。夢・幻・幻覚だとおっしゃりたいのなら、それはそれで良いでしょう。ですが、僕にとっては夢にしろ幻にしろ、これを体験させられたこと自体が重要なのです。

 当時僕は1000ページにも及ぶ小説を書き、20世紀末を想定した終末思想を完全に否定出来たといい気になっていました。そんな僕の傲慢さに冷水を浴びせかけたのが高松女子の日本列島壊滅の予言でした。
 僕は、終末を信じてそれを喧伝する人々、恐怖にかられて自分達だけ生き延びようとする人々を軽蔑していたのです。それが、自分が軽蔑していた人々と同じように、いやそれ以上に恐怖にかられ、僕の人生の汚点とも思えるような無残な醜態を演じたのです。そして、その直後に、この臨死体験が起こったことが不思議でならないのです。
 その時、何かが、僕に、徒に死を恐れることはないと教えてくれたと、今では思っています。と同時に、与えられる死を迎えるまで、生きなさいという教えでもありました。

 最後になりますが、僕の体験したエクスタシーについて述べたいと思います。あの感覚はどこかで体験した記憶があったのです。それが何であったかなかなか思い出せなかったのですが、子供にせがまれスキーに行ったとき、「なんだ、これかよ・・・」と思い出しました。
 似て非なるものですが、近いと言えばこれほど近い感覚はないでしょう。皆さんはスキー靴やスケート靴を脱いだ時の足全体を包むジーンという快い感覚を覚えているでしょうか?そう、あの感覚を数千、数万倍にした悦楽が体全体を溶かしているような感覚です。重い、物質の塊である肉体を脱ぎ捨てた時のエクスタシーです。
 

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