普通のお話No1  今生の別れ   

         
 父が階下で唸り声をあげている。腹の調子が悪いというので朝食をお粥にしていたが、昼頃からとうとう腹痛がはじまり苦しみ始めたのだ。だが、そんなことは毎度のことで、家族も皆慣れっこになっていて誰も相手にしなかった。
 父は痛みに弱く、ちょっとしたことで大げさに騒ぐ性質なのだ。風邪で熱をだそうものなら「はーはーうーうー」と声をだして息をするし、腹痛も年中行事でクスリを飲んで胃の違和感(程度なのだと思う)がなくなるまで唸り声をあげているのである。
 その日、母と妻は連れだって法事に出かけてしまい、家には父と僕だけが残された。僕は二階で剣道の中古防具の飾り糸を紐解き、糸がどう組まれているのか解明中で、父のそんな様子を知りながら、なんとなく気付かない振りをしていた。まったく大袈裟なんだからといった気分だった。
 しかし、次第に気になってきて、階下におりて行った。苦しむ父に声をかけた。
「そんなに苦しいの?」
「ああ、苦しー」
「病院に連れていこうか?」
「ああ、もし、そうしてくれるんなら、あり難い」
 どうやら、その言葉から察すると、父は僕に遠慮していたらしい。僕は思わず苦笑を漏らし、出かける用意をした。車に乗せるにも一苦労で、肩に父の体重を感じながらも馬鹿に演技に念が入っている程度にしか思わなかった。病院に向かう途中でさえ、父の苦しみに対し疑惑の目を向け、
「お父さん、もう唸っていないけど、治ったんじゃない? 」
と問うと、
「うん、さっきより軽くなったみたいだ」
などと言う。
「食あたりか何かじゃないの?家のクスリで治るんじゃない? 」
「うーん、どうかな」
 実際、腹の調子が悪いのは年がら年中だし、その度に唸っているけど、その度に治ったじゃないかと言いたかったのだ。既に診療時間は過ぎており、無理を言って診てもらったのはいいけど何でもありませんでは、僕の立場がない。

 病院に着いて、父には後からゆっくり来るように指示し、僕は受付に急いだ。後ろを振り向くと、その歩みはのろく、まるで子供のようによちよちと歩いてくる。ちょっと不安に思ったけれど、先生を早くつかまえなければならない。
 受付では緊急ということにして、帰りかけていた先生に診てもらうことになった。ふと見ると、父が漸く受付から見える位置まで辿り着き、大きく肩で息をして立ち止まった。そして力尽きたようにソファに座り込んだ。
 僕は慌てて手近にあった車椅子を父の所まで押していった。父は
「おっ、いいもの見つけてきたな。これなら楽でいい」
というとソファから立ち上がり、座り込もうとするのだが、手前の足掛けを跨ぐことが出来ない。たった10センチの高さに足を持ち上げられないのだ。僕は急に不安に駆られて抱くようにして腰掛させ、診療室へ急いだ。

 受付ではかなり待たされた。診療が終わって一服しているのだろうか、なかなか入れとは言わない。父が天上を睨んで、うーんと唸った。
「どうしたの、苦しいの?」
「それが、どうも、治ったみたいなんだ。そんなに苦しくはない」
 おいおい、僕は悲しくなった。散々苦労かけてこれかよと思って憮然とすると、父は、
「でも、このまま帰るわけにはいかんから診てもらうか? 」
とにこりとする。
「そうだよ、このまま帰ったら、もう二度と診てもらえないよ」
「そういうこった」
 僕は父の隣に腰をかけ、深いため息を洩らした。それから暫くしてからだ。ふと、気付いたのだが、父の体が上下に揺れていた。僕はいつものおふざけで、父がわざとやっていると思って肩を押さえた。すると規則的な振動が手に伝わってくる。時には突き上げるような振動が襲う。父が口を開いた。
「どうなっているんだ。勝手に体が動いている」
 その動きが激しくなった。父も途方に暮れている。これはどう考えても尋常ではない。僕は吃驚して叫んだ。
「看護婦さん、お願いします、父の様子がおかしいんです、お願いします」
 看護婦さんも飛んできた。血圧を測ったり、瞼を開け目を覗き込んだりしている。それが何の役に立つのか苛苛していた。先生を呼んで来いと言いたかった。父の振動は止まらないし、さっきより激しくなっている。僕の出来ることは声をかけることぐらいだ。
「父さん、しっかりして、父さん」
 父はそのままの姿勢でいるのが苦しいらしく、車椅子から自らずり落ちて横になろうとしている。看護婦がストレッチャーを持ってきので、二人で父の体をそこに横たえた。僕は父の体を押さえて「大丈夫? 大丈夫? 」と聞いたが、父には返事をする余裕はない。
 その時だった。突然、父の顔から苦悶の表情が消えた。その代わり、柔和で穏やかな表情がそこにあった。僕はその顔を見て途惑った。体の振動は激しくなるばかりだ。そんな状況で父が微笑んでいる。何かが起ころうとしていた。すると、父は右手をゆっくりと持ち上げ、掌を僕に向けて左右に振り始めた。僕を見詰めながら、嬉しそうににこにことしてこう言ったのだ。
「ばいばい、ばいばい」
 そしてこうも付け加えた。
「ありがとね、ありがとう」
 僕は父の気持ちを悟った。どっと涙が溢れ、遠くで犬の遠吠えを聞いたような気がしたが、或いは僕の声だったのか?

 実はこの時、父は脳梗塞を起していた。たまたま病院だったため即救急病棟に入り処置は万全だった。しかも翌日、腹痛の原因だった盲腸炎の手術も無事に済み、事のなきをえたのだ。僕にとって、父がいつ逝ってもおかしくない歳であることをつくづくと思い知らされた事件だった。
 そして、意外だったのは、父は苦痛に対してあれほど堪え性のない男なのだが、死に対しては、わざわざおどけて見せるほどの余裕を持っていたという事実である。あの時、父は間違いなく死を覚悟していたし、僕も最悪の事態を意識していたのだから。僕には、あの潔さとユーモアは真似出来ないと思う。でも、あの歳になるまでまだ時間はある。すこしでも父に近付きたいと思う。

 数日後、超音波検査があって、父はその大きな装置のある部屋までベッドで運ばれた。重い鉄の扉が閉められ、僕は待合室で待つことになった。中で父の声がする。耳を澄ませると、父が検査技師に尋ねる声がきこえた。
「これって、痛いの? 」

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