普通のお話No10  新約聖書の人々 その3  

        

このHPをお読み頂いている皆さんは、僕がかっとしやすい性格であることをよくご存じだと思います。僕は過去に何度も転職を繰り返したわけですが、それは僕がちょっとしたことで(理不尽だと感じたことで)かっとなり上司とぶつかってきたことが原因です。
 そんな僕ですから聖ペトロの行動が理解できるのです。「新約聖書の人々 その1」でとりあげた、ペトロが暴徒の一人に斬りつけるというワンシーンも、ことと次第によっては僕もやりかねないのです。そして、次に繰り広げられたシーンも、僕は自分の弱さを知っていますから同様に頷けるのです。それはペトロを含め12使徒全員がイエスを置き去りにして逃げ去ったシーンです。
 12使徒たちは何度もイエスの奇跡を目の当たりにしてきたはずです。神の御子だということも信じていました。にもかかわらずイエスを守ろうともせず、我が身の安全を確保することしか頭にありませんでした。
 でも、12使徒のこの行動を責めるのは酷というものです。何故なら、イエスは何度も自分の運命を12使徒に語っており、彼らはその言葉を思い出し恐怖に駆られたのです。マルコの福音書から引用します。

「今、私たちはエルサレムに上って行く。人の子(イエス)は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」

 この時、12使徒はイエスのこの言葉と十字架に釘付けされるイエスの姿を思い起こし、心胆を寒からしめるどころではなく、凍り付かせたのだと思うのです。「三日後に復活する」という言葉など吹き飛んでいたでしょう。
 捕縛されたイエスを待ち受けているのは、侮蔑され、唾を吐きかけられ、鞭打たれ殺されるという運命です。僕などいの一番に逃げ出していたはずです。かっとしやすい人は冷静になると意外と小心者であることが多いのです。
 ですが、別の見方もあります。イエスを置いて逃げ去ることは最初から決められていたというケースです。マルコの福音書には次の言葉があります。

 「種を蒔く人」のたとえで、悪所に蒔かれた種は実を結ばないが、
「ほかの種はよい土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 ここで、「よい土地に落ちた種」、そして「聞く耳のある者」とは言うまでもなく12使徒のことです。12使徒はイエスの言葉、福音を人々に伝える役目を担っていました。そしてもう一つ、これこそイエスが12使徒に与えた最も重要な役割だったのですが、イエスの最後の奇跡の生き証人として死ぬまでそれを語り続けなければいう使命です。最後の奇跡とは、そう、イエスの復活の奇跡です。
 そのために、12使徒はこのシーンでは命を落としてはいけなかった。与えられた使命を全うするために、生き延びねばならなかったというケースも考えられなくはありません。しかし、もしそうした申し合わせがあったとしたらペトロの激情が腑に落ちません。ペトロはリーダー的存在なのですから、イエスのシナリオの率先者でなければならなかったはずです。やはり、素直に聖書の文字通り、我を忘れて逃げ去ったと解釈すべきでしょう。
 或いは、それはイエスが12使徒に与えた最初の試練とも言えます。つまり、12使徒全員が逃げ去ることを最初から分かっていたということです。死の恐怖を克服できる人などそうそういないのですから。
 再びマルコの福音書から引用します。
「自分の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」
 ここで、「自分の十字架を背負う」という言葉の凄さを実感してもらう必要があるようです。ローマ時代の十字架刑はローマに対する反逆者へのみせしめとして考案されたもので、死に至るまで苦しみもがく姿を長時間さらす残虐な刑罰だったと言うことを。
 受刑者は、イエスもしたように、自分か磔(はりつけ)にされる重い十字架を背負い刑場へまで引き立てられ、両方の掌のそれぞれと両足首を束ねた一点に釘を打ち込まれるのです。つまりこの3点によって全体重を支えねばなりません。足に力を入れ両手の激痛を軽減しようとすれば足に、逆に手で体重を支えればその激烈な痛みが両手を襲い、受刑者は気を失うまで上下運動を繰り返すことになります。。
 僕がいの一番に逃げだしたはず、と言った意味がお分かり頂けたでしょうか? 僕だったら掌に釘を打ち込まれた段階で気を失っているかもしれません。

ペトロのエピソードその3
 僕はどうもヨハネが好きになれません。自らを「イエスが愛しておられた弟子」と言って憚らないのは、どうも日本的な美意識、つつましさ、謙虚さと相容れないような気がするからです。ましてや最後の晩餐のおり、イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言ったことに対し、『イエスの胸元によりかかったまま、「主よ、それは誰ですか?」』と聞く態度は、師に対する接し方ではないし、妙に粘っこく媚びているようにも感じてしまうのです。
 それだけイエスから愛されていたと言いたかったのかもしれませんが、僕はむしろ、イエスに愛されていないのではないかと不安に駆られる小心者のペトロの方に親近感を覚えてしまいます。しかし、イエスはこの気の小さなペトロにだけ、何故か無惨な死を遂げることを告げているのです。
 それはヨハネの福音書のみに記述されています。このヨハネの福音書は随所にマタイ・マルコ・ルカの3福音書と異なる記述が見られます。異なる伝承は、この3福音書相互にもにも見られるのですが、それらは書き手の記憶や解釈の違い、或いはその場に居合わせたとしても記憶が抜け落ちたり、たまたま見逃したりといった解釈が可能な範囲内ですし、言葉というものが僕らの記憶の中で非常に移ろいやすいものであることを考慮すれば致し方ないことだと思います。
 それだけに、最後に書かれたというヨハネの福音書のこのエピソードが妙に気になるのです。それでは紹介します。

 死から復活したイエスが7人の弟子たちの前に現れます。彼らと共に食事をした後に、イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけます。ペトロは当然「愛している」と答えるのですが、イエスの問いかけは三度にも及びます。ペトロは何度も聞かれて悲しくなって最後のこう答えます。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」
「わたしの羊を飼いなさい(注1)。はっきりと言っておく。あなたは若いときは、自分で帯を締めて、いきたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」
 これは言うまでもなく、イエスと同じ刑死という運命を辿ることを告げています。しかし、その後に永遠の命を賜るのだから覚悟を決めなさいということかもしれませんが、それでもペトロは納得できません。食後にイエスに付き従って歩いて行くと途中、それでは、あの男はどうなんだ? と後から付いてくるイエスの愛しておられた弟子に目を留めます。

 ペトロは彼を見て、
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
イエスは言われた。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。わたしに従いなさい」
それで、この弟子は死なないと言ううわさが兄弟たちの間で広まった。

 
 どうです、ペトロの切実な思いが伝わってきませんか? 誰だって、たとえどんなに崇高な使命のためと言えども、苦しみの末に死ぬなんて厭に決まってます。では、イエスの愛しておられた弟子はどうなんだ? という疑問が湧いてきたとしても頷けるのです。それを聞かずにはおれなかったペトロの純朴さが、なんとも人間くさいとお思いになりませんか?。
 そして、ペトロの質問に対するイエスの答えが、人を突き放すようで優しさに欠けているような気がします。いやいや、批判めいたことを言うのは止めにしておきましょう。聖書の素人が考え及ばない深遠さがあるのだと解釈すべきなのでしょう。とにかく何億人もの人々が聖書の一字一句を神の御言葉と信じているのですから。


注1):イエスがペトロに「愛しているか?」と3度尋ねるのは、「新約聖書の人々 その2」で紹介したイエスの予言「「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」に対応しており、「わたしの羊を飼いなさい」の意味は、イエスの教えを広め、信者の面倒を見、そして導きなさいといった意味だそうです。

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