普通のお話No12  我が家の革靴事件  

        

僕の妻は以前奇妙な癖を持っておりました。それは、家族旅行やちょっとしたお出掛けの前夜、二人の子供の衣装を居間のフロアーに並べておくのです。上から順に、ジャケット、その内側にはポロシャツ、その下にはズボンとスカート、そして最後に真新しいソックスといった具合です。そして何を思っていたのか、ソックスは決まって右向きに揃えられいました。二人分だと白い『く』の字が四つ並ぶのです。
 子供の服はそれ自体が愛らしいものです。居間に並ぶそれらを眺めながら、妻と二人で旅行の計画をあれこれ考えたものです。そう、あの頃が懐かしい。今は昔になってしまいましたが、その光景はいつまでも僕の心の襞に残っています。
 いつの頃からでしょうか、二人の子供は、親を疎んじるようになり、以前あれほど楽しみにしていた家族旅行さえ渋るようになりました。特に下の息子は中学に上がる頃には、車に一緒に乗ることさえ、威しても賺(すか)しても、頑としてこれを拒否するようになったのです。
 こうして長年続いた一家揃っての家族旅行は、親達に一抹の寂しさを残し、永遠に途絶えることになったと言うわけです。
 あの革靴事件が起きたのは、そう、息子が中学に入る前のことだったと思います。彼がまだ独り立ちする前のことです。
その前夜、やはり娘と息子の衣装やらソックスやらが居間に並べられておりました。一際目を引いたのは、息子にとって初めての革靴が、ソックスの下に、やはり右向きに並べられていたことで、何とも贅沢な物を買ったものだと、僕は心の中で呟いておりました。
 翌日は弟の結婚式で、都内のホテルで執り行われることになっていたのです。田舎者の我が家族は、都内のホテルと聞いただけで、僕の両親も含め多少緊張ぎみであったわけです。しかし、この時点において、まさかそのことが、あの革靴事件の引金になるなどとは誰も予想もしませんでした。
 翌日は朝から慌ただしく、妻などはおめかしに夢中で、騒ぎ回る子供達を怒鳴りまくっておりました。いざ出陣という段にも一悶着ありました。1500ccのカリーナに僕達一家6人乗り込むのですから大変なわけです。一番太った、僕の母が助手席に乗ることで決着が着きました。後部座席に4人、何とも重いスタート切りました。
 さてホテルに着き、神妙な面持ちの親とは対称的に、子供達はホテルの威容さに気圧されることもなくはしゃぎまわり、妻はと言えば、大声を出すわけもいかず騒ぎ回る子供達を睨みつけ引き釣った笑いを浮かべています。僕は多少余裕をもって先を歩いていました。
 この時、妻が『あれー』と、何とも情けない声を漏らして、息子の足元にしゃがみこんだのです。僕は何事かと思いとって返しました。すると、どうでしょう。息子はあの革靴ではなく、通学用の汚れたズックを履いているではありませんか。僕も思わず『あれー』と叫びたくなりました。
 この失態によって息子は妻にしこたま頭をこずかれておりましたが、考えてみれば、この責任を息子一人に押し付けるのも酷だったような気がします。ふと、妻を見れば、上から下まで一分の隙もなくばっちりと決めていました。自分にばかり気を取られ、息子の足元を見なかった妻の方にこそ責任はあったのです。
 家に帰り、居間に入って行きますと、あの革靴は昨日と同じ場所に、意味もなく右向きに揃えて置いてありました。そして、とうとうこの靴は息子の足を覆うこともなく、妻の友人に払下げられました。
 これを契機に息子が旅行に行かなくなったと言うわけではないのです。それは、ちょうど息子が子供から大人になる転換期にこの事件が重なったと言うだけなのです。しかし、これを最後に、我家では家族揃って出掛けることがなくなったことも事実です。
 この革靴事件は、一抹の寂しさとほろ苦さを伴って、時折思い出されます。親はいつでも自分の思い通りになったかわいい子供を懐かしみ、自分の勝手さなど露ほども思い出さないものです。妻は自分が子供をこずいたことなど、きっと忘れているはずです

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