普通のお話No16  新約聖書の人々 その5

        

最初にこの「新約聖書の人々」を書き始めた際、僕がその冒頭で、聖書の登場人物に対し次のように述べたたのを覚えていますでしょうか?

「僕が彼らに感じたのは選ばれてあることの矜持と苦悩が実に人間らしく、それがかえって聖書の記述にリアリティを与えている」

 リアリティについて言えば、上の文章に沿って例をあげると、選ばれてあることの矜持が行き過ぎて傲慢へと、死に対する苦悩がそれを免れる人への羨望へと変わる様が垣間見えたりするわけで、人間とは実に滑稽で弱い存在であることを目の当たりにし、思わず自からを省みるはめになるのです。

 今日、ご紹介するするお話・「ゲッセマネの祈り」は、数々のエピソードの中でも最も重要なシーンだと思うと同時に、そのリアリティにある種の感動さえ覚えます。
 それは、死を覚悟した人間が死に対する恐れと不安に打ちのめされ、おののき苦しむ姿を、もし、我が身に置き代えたとしたら、その姿はまさに自分自身を見ていると思わせるほどのリアリティがあり、思わず引き込まれてしまうその描写に心が共振したという意味です。
 ところで、その主人公がイエス本人だとしたら、皆さんはどのように感じるのでしょうか?イエスが、神の子・イエスが、死を恐れた? そんな馬鹿な、とお思いになりませんか?でも、事実、聖書にはそのように記述されているのです。
 神聖を疑う? いえいえ、それこそ恐れ多いことです。ですからこのように解釈することにしましょう。つまり、人間に受肉した魂は、それがどれほど神聖であったとしても、肉体という呪縛からは逃げられないのだと。

 そもそも人が死を恐れる最大の理由は、死が苦痛を伴うと思いこんでいるからで、誰しも眠るように、或いはポックリと死にたいと願っているのはそのためですが、イエスが受けることになる十字架刑は古代でも最も苦しみを伴う刑罰に分類されます。
 では、この十字架刑について、再度おさらいしたいと思います。どのような刑罰だったかを知ることは、イエスの「ゲッセマネの祈り」が、どれほど切実だったかを理解するのに役立つはずです。「普通のお話NO10」から引用します。

「ローマ時代の十字架刑はローマに対する反逆者へのみせしめとして考案されたもので、死に至るまで苦しみもがく姿を長時間さらす残虐な刑罰だったと言うことを。
 受刑者は、イエスもしたように、自分か磔(はりつけ)にされる重い十字架を背負い刑場へまで引き立てられ、両方の掌のそれぞれと両足首を束ねた一点に釘を打ち込まれるのです。つまりこの3点によって全体重を支えねばなりません。足に力を入れ両手の激痛を軽減しようとすれば足に、逆に手で体重を支えればその激烈な痛みが両手を襲い、受刑者は気を失うまで上下運動を繰り返すことになります。」

 それでは、「ゲッセマネの祈り」がどのようなお話かは、ウィキペディアから参照します。以下をお読み下さい。

『ルカの福音書の記述によると、イエスは普段からゲツセマネの園で祈ることを好んでいたと思われる。 マタイとマルコの両福音書にのみゲツセマネの園の名前が登場する。イエスはペテロたち3人の弟子たちを伴いエルサレム神殿の東のケデロンの谷を渡り、オリーブ山のふもとに行った。

イエスは悲しみもだえて、ゲツセマネの園で十字架刑を受けることの苦悩を祈る。十字架での死を「杯」と呼んで、できれば回避したいと祈りながら神の御旨を求めている。イエスは弟子たちに目を覚ましているように言う。しかし、弟子たちは悲しみのあまり眠っており、イエスから叱責された。

三度祈った後にイエスは決心して、自ら逮捕されるために進んでいった』


 (文中の「ペトロたち3人」とあるのは、12使徒のうちペトロ、ヤコブ、ヨハネのことで、このうちヨハネだけが後に福音書を残します。もう一人、福音書を残すことになるマタイは他の弟子たちとともに、現場証人である3人と離れた場所で祈るよう、イエスから指示されています。
 また、イエスは、弟子達に何度も自らの未来を予言してきました。残酷な刑死とその後の復活です。文中の「十字架を受ける」とは、自らが釘打たれる十字架を背負い、刑場へと引き立てられること言っています)

 さて、皆様はウィキペディアの解説をどう思われたのでしょう。何とも奇妙な記述があるとお思いになりませんでしたか? 僕が不思議に思ったのは次の文章です。
「イエスは弟子たちに目を覚ましているように言う。しかし、弟子たちは悲しみのあまり眠っており、イエスから叱責された。」とあります。
 イエスから目を覚ましていなさいと指示されたにもかかわらず、子供でもあるまいし、泣き疲れて眠ってしまったとでも? そんな馬鹿な。と思うのは僕だけでしょうか? これはウィキペディアの記者が不自然さを気に掛けない方だと言うわけではなく、聖書の記述をそのままコピペ(コピー&ペースト)しただけなのであって、確かにそのように書いてあるのです。
 詳細については後で触れますが、まず、その時のイエスの様子をそれぞれの福音書から見てみましょう。(短い文章なので末尾に全文-オンライン聖書-を載せておきます。是非お読み下さい)

 マタイの福音書
 『彼はペテロとゼベダイの二人(ヤコブ・ヨハネ)の子をわきへ連れて行かれたが、悲しみ、深く苦悩し始められた。

 そして彼らに言われた、「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりである。ここにいて、わたしと共に目を覚ましていなさい」』
 
 マルコの福音書 

 『彼はペテロとヤコブとヨハネとを連れて行かれたが、恐れおののき、深く苦悩し始められた。

 そして彼らに言われた、「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりである。ここにいて、目を覚ましていなさい」。

  そして少し進んで地にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた』
 
 
ルカの福音書
  『イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた.汗は血のしずくのようになって、地にしたたり落ちた』

 これらの文章から、イエスの尋常でない様子が窺われます。次に、祈りを終え弟子達のところに戻ってみると、皆、眠っていたのです。僕が疑問に思っているその眠ってしまった理由を見てみましょう。

 マタイの福音書
 彼が再び戻って見ると、彼らは眠っていた。彼らの目が重くなっていたからである。』
 
 マルコの福音書 

 『彼は再び戻って見ると、彼らは眠っていた。彼らの目が非常に重くなっていたからである。また彼らは、彼に何と答えてよいか、わからなかった。
 
 
ルカの福音書
  『弟子たちの所に戻って見ると、彼らは悲しみのあまり眠っていたので、・・・ 』


 さて、これらの眠っていた理由にについて、マタイの福音書ではあっさりと『目が重くなっていたからである』と述べています。また、マルコの福音書ではマタイと同じ『目が重くなっていた』ですが、さらに『彼らは何と答えてよいか、わからなかった』という記述を加えています。そしてルカの福音書では、これはウィキペディアがコピペした『悲しみのあまり眠っていた』という意味不明の記述になります。
 僕が意味不明の記述と言うのは、『悲しみのあまり眠っていた』の『眠っていた』原因が前後の脈絡から判然としないということです。普通に考えるなら、イエスの嘆きと苦悩に共感し、イエス同様に切に祈っていたため疲れて眠ってしまったと考えればよいのでしょうが、僕に言わせれば「そんな時、眠れるわけがない」ということになります。
 もし、不可思議な力が働いて3人が3人とも眠ってしまったのなら、そうした記述が好きなルカあたりがそう書いていてもおかしくありませんが、『悲しみのあまり』と言うだけで一言も付け加えてはいません。悲しみのあまり眠くなる、そんな話など聞いたこともありません。

 そこで、僕は次のように考えました。

 もしかしたら、彼らは、イエスの悲しみ悶える様子を目の当たりにして、僕と同じ疑念を抱いたのではないか、ということです。つまり、神の子のはずなのに、何故死を恐れるのか、という疑念です。
 彼らはイエスの奇跡の数々を目のあたりにしてきましたから、イエスを神の子と信じていました。そのイエスの神性に疑問を抱いてしまったのです。これほど悲しいことはありません。彼ら3人は、このことを、イエスに悟られたくなかった。つまり、自分たちは見てはいけないものを見てしまったのではないか? 目を合わせれば、イエスは尋常でない能力を持っていますのでそれと分かってしまう。
 つまり、疑念を抱いたこと、その『悲しみのあまり眠っていた』のではなく、その『悲しみのあまり眠ったふり』をしていたのではないか? マルコの福音書の記述の通り、眠ったふりをしていたので、イエスの非難に対し『何と答えてよいか、わからなかった』からと、僕は解釈したのです。
 イエスは、弟子たちに『自分の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』と言って、弟子達に死を恐れてはならないと諭しているのですから、懊悩するイエスの姿を目撃した3人の弟子たちの衝撃が、どれほど大きかったか、お分かり頂けると思います。

 次に、僕は一つの事実に注目しました。それは、ゲッセマネの祈りの目撃者はペテロ、ヤコブ、ヨハネですが、その3人から、或いはその3人のうちの誰かから、その直後に、つまり3人が衝撃を受けた直後に、イエスの尋常ならざる様子や、彼らがどう感じたかという証言を直接聞いて、福音書を書いたのはマタイのみであるという事実です。
 マルコもルカも、現場証人である3人のうちの誰かから直接聞いた可能性はありますが、それは福音書の成立という時間軸ーこのゲッセマネ祈りからおおよそ30年後ーを考慮すれば、もっと後々のことであり、ゲッセマネでのイエス言動の意味やイエスの意図について、弟子たちの間で多くの議論を経てうえで辿り着いた結論を聞かされたに過ぎないと思えるのです。
 つまり、マタイだけが、直後の3人の尋常ならざる様子や顔色、息づかいを直接見、そして感じ、話を聞き、あの記述を残したのです。そして、そのマタイだけがごく簡潔に「彼らの目が重くなっていたからである」とのみ記しています。不思議に思いませんか? 僕は、そこに何か隠されていると思った訳です。
 次に、マタイを含む、3人の現場証人以外の弟子たちは、イエスから「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、現場を見ていません。そこで何が起こったのか、神の子・イエスがこの3人に何を話したのか、彼ら3人が何を学んだのか、興味津々で待ちかまえていたはずです。
 そして、残された弟子たち、特に福音書を書いたマタイは、イエスの後に付いてくる萎れたような3人を目撃しました。何か異常な様子を感じ取り、是が非でも情報を得ようと思ったはずです。では、3人のうち誰から聞いたでしょうか? それは言うまでもなく、ペトロだったはずなのです。
 何故、ヤコブ・ヨハネでなかったかというと、この二人は12使徒から浮いた存在であったこと、そして12使徒の中でも最もイエスを信じ切っていたこと、まして、二人の母親は聖母マリアの従妹でイエスとは親戚でもあったわけですから、イエスの神性を疑うなどとは口が裂けても言えなかったはずだからです。

 ちょっと、本筋から離れますが、ヤコブ・ヨハネの二人が12使徒のなかで浮いた存在になった、そのエピソードを紹介しましょう。それは次のようなお話です。マルコの福音書から引用します。

『ゼベダイの子、ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。」』

 これは、マタイ、ルカに記されている以下のイエス言葉に対応しています。

『イエスは一同に言われた、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を納めることになる」』

 そして、この二人の行動に対し、マタイ、マルコの福音書には次のような記述が見られます。

『ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。』

 マルコはよほど腹立たしかったのでしょう、ついでにヨハネにとって知られたくない行状までばらしています。これは「普通のお話No9 新約聖書の人々 その2」でも取り上げていますが、危険を顧みず捕縛されたイエスの後を追ったのはペテロだけではなく、もう一人いたというエピソードです。
 マルコは福音書に非常に短いセンテンスを挿入しています。以下をお読みください。

『一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった』

 これは若者なのですから、ヨハネ以外考えられません。マルコはペトロの通訳とされていますから、この短いセンテンスの挿入はペトロの意向を反映したのかもしれません。

 さて、先ほどの問題に戻ります。マタイが、ゲッセマネで起こったことを誰から聞いたかという問題です。僕がペトロ以外には考えられないとした理由を述べたいと思います。

 僕は「普通のお話No9 新約聖書の人々 その2」でペトロとマタイの関係について次のように書いています。

『いかがですか、ペトロの慟哭が聞こえてくるような文章だとお思いになりませんか? 僕はマタイはペトロに好意を抱いていたのでは、と考えています。他の福音書の文章にはないある種の情緒が感じられるのです。ペトロの苦悩に対する深い共感という情緒、自分は逃げ出して息をひそめていたという羞恥に対する贖罪の気持ちがその底に流れていると。』

 思い出していただけたでしょうか? 僕は、マタイはペトロと非常に親しいか関係にあったと考えています。また、マタイは非常に優しい素直な方だったのではないかと思えてなりません。それは、ヤコブとヨハネが、イエスが栄光の座に座るとき、二人を左右に配していただきたいと願い出たエピソードも、実はイエスに願い出たの二人の母親だったとており、二人を庇うような記述になっています。
 そのマタイは、ゲッセマネの直後か、イエスの復活後かは分りませんが、しつこくペトロに何があったのか問いただしたと思うのです。そして、ペトロは・・・。

 ーここからは思い込みの激しい僕の想像になりますので、そこをご理解のうえ、お読みください。ー

 激情型の人間はその感情がすぐに表に出ますし、その感情を吐露せずにはいられないのです。心の内に秘めて口を閉ざすなど出来ない相談です。僕がたびたび口にする言葉をもってマタイに話し始めたはずです。
「お前にだけ話すんだ。他の誰にも絶対に秘密だからな、約束だぞ・・・実は・・・」と。

 どうです、マタイが「彼らの目が重くなっていたからである。」としか書き残さなかった理由がお分かりいただけたでしょうか? マタイはペトロとの約束を守ったのです。3人がイエスの神性を一瞬でも疑ったこと、そして「死を恐れて懊悩する貴方様を見ませんでした」と眠ったふりをしていたことなど書けるわけがありませんから。

 あまりにもうがった見方だと非難があがるのは承知のうえです。でも、キリスト教徒でない人間が、まっさらな気持ちで読んだ感想ですので、どうしようもありません。僕の解釈は間違っているかもしれませんので、貴方自身で読んでみたらいかがでしょうか? 

 いずれにせよ、このゲッセマネの件があったからこそ、イエスの予言は成就しました。どの予言ですって? それは最後の晩餐の直後、ゲッセマネの祈りの直前の次の予言です。

 『その時、イエスは弟子たちに言われた、今夜、あなたがたはみな、わたしにつまずく(裏切る)。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書かれているからである。』

 この予言通り、イエスが逮捕されたおり、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのです。

※ 以下は各福音書の「ゲッセマネの祈り」の章の全文です。

タイによる福音

26:36それから、イエスは彼らと共に1ゲッセマネと呼ばれる場所に来て、弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」。

26:37 彼はペテロとゼベダイの二人の子をわきへ連れて行かれたが、悲しみ、深く苦悩し始められた。

26:38 そして彼らに言われた、「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりである。ここにいて、わたしと共に目を覚ましていなさい」。

26:39 そして少し進んで、うつぶせになり、祈って言われた、「わが父よ、できることなら、この1杯をわたしから過ぎ去らせてください.しかし、わたしのこころのままではなく、あなたのみこころのままになさってください」。

26:40 そして、彼は弟子たちの所に戻って見ると、彼らは眠っていた。そこで彼はペテロに言われた、「あなたがたはこのように、一時間もわたしと共に目を覚ましていることができなかったのか?

26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。1霊は願っていても、肉は弱いのである」。

26:42 彼はまた二度目に離れて行き、祈って言われた、「わが父よ、これをわたしが飲まなければ、過ぎ去ることができないのでしたら、あなたのみこころがなりますように」。

26:43 彼が再び戻って見ると、彼らは眠っていた.彼らの目が重くなっていたからである。

26:44 そこで、彼らを残し、再び行って、三度目も、また同じ言を言って祈られた。

26:45 それから弟子たちの所に戻って来て、彼らに言われた、「あなたがたはまだ眠っているのか、休んでいるのか? 見よ、時は迫った.人の子は罪人の手に渡される。

26:46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいて来た」。

 

マルコによる福音

14:32 1それから、彼らはゲッセマネという名の場所に来た.そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」。

14:33 彼はペテロとヤコブとヨハネとを連れて行かれたが、1恐れおののき、深く苦悩し始められた。

14:34 そして彼らに言われた、「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりである。ここにいて、目を覚ましていなさい」。

14:35 そして少し進んで地にひれ伏し、できることなら、1この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

14:36 彼は言われた、「アバ父よ、あなたにはすべての事が可能です.この杯をわたしから取り去ってください.しかし、わたしのこころのままではなく、1あなたのみこころのままになさってください」。

14:37 そして、彼は戻って見ると、彼らは眠っていた。そこで彼はペテロに言われた、「シモンよ、あなたは眠っているのか? あなたは一時間も目を覚ましていることができなかったのか?

14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は願っていても、肉は弱いのである」。

14:39 彼はまた離れて行き、同じ言を言って祈られた。

14:40 彼は再び戻って見ると、彼らは眠っていた.彼らの目が非常に重くなっていたからである。また彼らは、彼に何と答えてよいか、わからなかった。

14:41 彼は三度目に来て、彼らに言われた、「あなたがたはまだ眠っているのか、休んでいるのか? もう十分である。時が来た.見よ、人の子は罪人の手に渡される。

14:42 立て、さあ行こう.見よ、わたしを裏切る者が近づいて来た」。

 

ルカによる福音
<22:39 そしてイエスは出て、いつものようにオリブ山へ行かれた.弟子たちも彼に従った。
22:40 1その場所に来ると、イエスは彼らに言われた、「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」。
22:41 そしてご自分は、彼らから石を投げて届くほどの所に退き、ひざまずいて祈り、
22:42 こう言われた、「父よ、みこころでしたら、1この杯をわたしから取り去ってください.しかし、わたしのこころのままではなく、2あなたのみこころが行なわれますように」。
22:43 1すると、御使いが天からイエスに現れて、彼を力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた.汗は血のしずくのようになって、地にしたたり落ちた。
22:45 彼は祈り終え、立ち上がって、弟子たちの所に戻って見ると、彼らは1悲しみのあまり眠っていたので、
22:46 彼らに言われた、「なぜ、あなたがたは眠っているのか? 誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。

 
 

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