普通のお話No3  煙草の煙   

         
  嫁さんが隣の部屋でバッグに荷物を詰め込んでいる。僕は居間のソファーに座ったまま聞き耳を立てていた。時折、嫁さんのしゃくりあげる声が聞こえる。引き止めるべきだ、という心の叫び。沽券にかかわる、というプライドの声。
 ささいなことから喧嘩になり、嫁さんは離婚すると言い出した。確かに自分勝手で我儘な僕に愛想が尽きたとしてもおかしくはない。嫁さんとの思い出が次々に心に浮かんでは消えた。涙が滲んだ。そして足音、続いてドアの閉まる音。涙がぽろりと落ちた。
 僕は固まったまま動けなかった。それでも頭は目まぐるしく回転している。どうすればいい、どうすれば元の鞘に納まる? その時、ふと、視線を感じた。僕は結構勘が良い。嫁さんは出ていった振りをしただけで、日本間で僕の様子を窺っている。僕はにやりと笑うと、目を何度も瞬(しばた)かせ涙を乾かす。

 居間と日本間との間の襖が僅かに開かれている。恐らく出て行く時、嫁さんが少しだけ開けておいたのだ。僕は胸のポケットからおもむろに煙草の箱を取り出した。一本しかないが、それも絵になる。煙草をくわえ、空箱をくちゃくちゃに潰すと床に叩きつけた。
 顔を心持日本間の方に向け、尻のポケットからジッポを取り出し、カチャと音を響かせ火を点けると大きく吸い込む。虚空を見詰め、苦りきった顔でニヒルに笑う。そして唇をすぼめ、煙をゆっくりと吐き出した。

 突然襖が開かれるが、僕は悠然と煙を吐き続けた。
「驚いた?」
「全然。」
「泣くかと思って見てたの。結構、余裕ね・・・。」
「そうかなー」
 この言葉は、僕の最大の妥協の産物である。余裕があるとは決して言っていない。少しは悲しんだと告白したい気持ちもあった。
「男がそんなことで泣くか、馬鹿。それより、早く夕食の支度しろよ。腹が減った。俺は煙草を切らしたから、買いに行ってくる。」
 僕は立ち上がり、煙草を吹かしながらアパートを出た。外に出るとほっと胸を撫で下ろし、喉まで出かかっていた見栄とかプライドとかいう男の虚勢の塊を煙と一緒に吐き出したのだ。安堵感がじわじわと広がってゆく。この時ほど、煙草が美味いと感じたことはない。

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