普通のお話No9  新約聖書の人々 その2   

        

前回は、ペトロの激情のワンシーンを取り上げました。イエスを捕縛しようとする殺気だった人々の一人に剣で斬りつけ、その耳を切り落としたと言うのですからただ事ではありません。彼らが暴徒と化してイエスもその場で殺されかねない状況を作ったのです。この時イエスはペトロこう言って叱責したと書かれています。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父(旧約の神)にお願いできないとでも思っているのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現できよう(実現出来なくなってしう)」
 つまり、イエスの受難は旧約聖書に預言されおり、その実現のためにイエスは死を覚悟していたということで、ペトロの激情は予定外であったということです。ただ、イエスのこの勇ましい言葉が記されているのはマタイの福音書のみで、マルコの福音書では「聖書の言葉が実現されるためである」、ヨハネの福音書では「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか(毒杯をあおること?)」とのみ記されています。

ぺトロのエピソードその2

 激情型のペトロという僕の解釈が正しいか否かの判断は皆様にお任せするとして、今日はその後、つまりイエスが捕縛され連行されるのですが、イエスを置き去りにして蜘蛛の子を散らすように逃げさった12使徒の中で、ペトロだけは皆と違った行動をとったというお話です。
 
 正確に言うなら、ペトロもイエスが捕らえられたときその場を逃げだしたのですが、他の11人がイエスが処刑され復活を遂げるまで息をひそめていたのに対して、ペトロは連行されるイエスの後を追い、裁判が行われた最高法院の中庭にももぐりこんでいるのです。
 いや、もう一人イエスのことが心配でその後を追った人がいました。マルコの福音書にだけこんな記述があります。
「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」
 いったいこれは誰のことを記述した文章なのでしょうか? マルコ以外にこの若者に言及しておりませんので誰のことか不明なのですが、或いは若い男と言えばヨハネかとも思われますが、これは謎のまま残しておきましょう。
 とにかく、一人が逃げ出せば、誰もが逃げ遅れまいという衝動にかられるのは致しかたありません。ペトロは12使徒のリーダー的存在でした。そして、逃げる途中ペトロはそのことを思い出したのだと思うのです。
 
 その後の出来事について、やはりマタイの福音書がよりリアルに感動的に描いています。余計な文章を差し挟まず、そのまま記述しておきます。

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄ってきて、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれをうち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこでペトロは再び「そんな人は知らない」と誓ってうち消した。
 しばらくして、そこにいた人々が近寄ってきてペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」その時ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして、外に出て激しく泣いた。

 いかがですか、ペトロの慟哭が聞こえてくるような文章だとお思いになりませんか? 僕はマタイはペトロに好意を抱いていたのでは、と考えています。他の福音書の文章にはないある種の情緒が感じられるのです。ペトロの苦悩に対する深い共感という情緒、自分は逃げ出して息をひそめていたという羞恥に対する贖罪の気持ちがその底に流れていると。
 これに対してヨハネの福音書はこの出来事をひどくあっさりと書いています。それに妙なことに12使徒の誰もが(ヨハネも含めて)逃げ出したという事実さえ記していません。ましてや、ペトロ一人ではなく、もう一人の弟子がペトロと一緒に、捕縛されたイエスの後を追ったことになっています。そしてこう記しているのです。

 この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出てきて門番の女に話し、ペトロを中にいれた。

 どうも、おかしいとお思いになりませんか? 一人だけ全く違った事実を書いているのですから。ヨハネは一人天寿を全うしたとことになっています。いや、聖書の記述通りに言うなら、イエスの再臨(再びイエスが人々の前に姿を現すこと)まで生きることになっています。この話はちょっとややこしいので脇に置いておくことにしましょう。
 いずれにせよ、このヨハネの福音書が最後に書かれたというのが研究者たちの一致した見解ですが、ヨハネ自身が書いたとするのは疑問視されているようです。でも、僕はやはりヨハネ自身の筆によるとしか思えないのです。 もし、あの裸で逃げ出した若者がヨハネだとすると、その恥辱を晴らさずには死ねなかった、或いは裸で逃げたのは私ではない、私は大祭司の知り合いだったので正々堂々と門から入ったと言いたかったのでは、と思ったりします。
 僕の考えすぎでしょうか? このように福音書の記述は、人間の心の弱さや人間関係を追ってゆくと、思いの外リアルな存在感を以て迫ってくるのです。不思議な物語としか言いようがありません。

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