予言なんてクソクラエ

第十六章 破滅

    (一)
石井は意識を失っていた。数分なのか数秒なのか分からない。朦朧とした意識の中に男達の争う声が入り込んできた。覚醒するに従い体中がずきずきと痛み、呻き声を上げそうになったが、漸く堪え男達の声に耳を澄ませた。
「おい、重雄、何処に行こうってんだ。俺達はここでこの階の秘密を守るんだ。それが役目だ。持ち場を放棄しようってえのか。」
「いや、ちょっと……。」
「いや、ちょっとじゃねえよ、この馬鹿野郎。」
別のもう一人が怒鳴った。石井は薄目を開け、様子を窺った。茶髪の後姿が見える。仁王立ちしている。その前に坊主頭が重雄と呼ばれた男の襟首をつかんで、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
 石井はすっと立ち上がった。仁王立ちした男の陰で、三人は気付かない。さっきのお返しとばかり、石井は茶髪の股間を後ろから思い切り蹴り上げた。茶髪は突然の激痛に悶絶した。はっとして坊主頭が重雄の襟首から手をはなし、石井に突進してくる。石井は引き下がらず前に出た。
 拳が飛んでくる。当たっても構わない。そのくらいの気構えがなければこの技の効き目はない。拳が頬を打った。距離が狭められた分、ダメージは半減している。石井はそのまま頭から突っ込んだ。強烈な頭突きで坊主頭が後ろに吹っ飛んだ。
 重雄の姿がない。屋上だ、エレベーターのボタンを押した。反応がない。いくらボタンを押しても一階からそれは動こうとしない。ロックされている。石井は廊下を走った。ドアがいくつもあるが全て鍵がかかっている。
 廊下のはずれに非常階段があった。耳を澄ますと足音がする。重雄も屋上を目指しているのだ。石井も階段を駆け上がった。途中で小林刑事に電話を入れた。小林はすぐ出た。
「満は今屋上にいます。私も階段で向かっているところです。ところでそっちは随分騒々しいですね。」
「ああ、我々も満を追ってビルの地下に入ったところだが、信者達の抵抗にあっている。結構、強面がそろっている。」
「そんなことより、ヘリの用意は出来ているのですか。はあはあ。」
「ああ、大丈夫。すでにこっちに向かっている。」
「とにかく、早く屋上に来て下さい。はあはあ。」

    (二)
 地鳴りが止んだ。時折空をオレンジ色に染めていた発光がなりをひそめ、雲ひとつない秋空が広がっている。嵐の前の静けさか。杉田はいよいよかと身構えた。その刹那ぐらぐらっと揺れた。強い揺れで、ヘリの四つロータが大きく傾きギーギーと音をたてた。
 戦慄が走った。満の手紙に書かれていた通り強烈な縦揺れだった。この後にくる巨大地震まで殆ど間がないと言う。満は間に合うのだろうか。手すりにしがみつき脚を踏ん張って耐えた。一分ほどで揺れはとまった。慌ててラジオをつけると、アナウンサーが今の地震について話している。
「いやー、凄い地震でしたね。モニターが飛んで床にはガラス片が散乱しています。恐らく震度6以上と思われますが、被害の状況など、これからお伝えしようと思います。」
杉田は苛苛しながら待った。次にもっと大きなのが来る。それが地面を1メートルも持ち上げるという巨大地震なのだ。血走った目で階段のドアを見つめた。そのドアが開いた。満と片桐が走ってくる。杉田は歓喜の声を上げた。
「間に合った、良かった、良かった。早く、早く。」
片桐がヘリのドアを開け、満を前の座席に座らせ、自分も操縦席についた。満が後ろを振り返って声を張り上げた。
「パパ、会いたかったよ。いったい何処に行っていたの。本当に長い出張だったね。」
その表情は何の屈託もなく無邪気な子供のそれで、まして声が子供の頃に戻っている。杉田は背筋に悪寒を感じながら、へどもどして答えた。
「ああ、ああ、長い出張だった。」
その時、片桐がエンジンをかけながら叫んだ。
「満さんの話では、邪魔が入って時間をとられたそうです。巨大地震まであと5分です。11時26分が運命の瞬間だそうです。」
ロータが唸りを上げ始めた。杉田が叫んだ。
「よし、飛びたて。」
ヘリは何度乗っても気持ちの落ち着かない乗り物だった。しかし、と杉田は思う。満の声が昔のそれに戻っている。かつて妻と満を名古屋の実家に残して東京に2年ほど単身赴任していた。そこで会社をクビになったのだが、確か満が声変わりする前だ。顔もその頃のように幼い印象を受ける。
突然、窓ガラスに人の顔がへばりついた。驚いて見ると重雄だ。何か叫んでいる。片桐が窓を開けて怒鳴りつける。轟音で何も聞こえない。片桐が胸から拳銃を取り出すのが見えた。青い煙が上がった。顔を血にそめた重雄が後ろに飛んだように見えた。いや、ヘリが飛び立ったのだ。
 ヘリはホバリングしながら方向を変えた。その時、石井はようやく屋上にたどり着き、ヘリコプターのなかに五十嵐がいるのを認めた。石井は全力疾走でヘリに向かって駆けた。途中で若い男の死体が転がっていたが気にもしなかった。浮き上がる寸前、石井は着陸用のパイプに取り付いた。思いのほか太い、十分に握れない。
 片手が離れた。もう終りかと思った。ふと見ると、ヘリは屋上のフェンスの上を通り過ぎようとしている。石井はそのフェンスを思い切り蹴って、パイプに両手両脚を巻きつけた。徐々に前方に移動し、交差するパイプに手を伸ばし、体を起した。
 ヘリは思ったより大きい。ドアの取っ手をつかもうとするのだが、とても届かない。いろいろやってみたが体を支えるのがやっとのことだ。ふと眼下の光景を見て、尻の穴がむずむずして下半身が縮みあがった。石井は思い出した。高所恐怖症だったのだ。それに加え、刺すような冷気が体の体温を奪って行く。ヘリは高みへ高みへと上昇していった。
 キャビンの中では、満が秒読みを始めていた。
「39、38、36、35、・・・」
杉田と片桐は息をひそめてその瞬間を待っていた。11時26分まで、あと
「30、29、28・・・・・・・」
この数年、彼等を恐怖のどん底へと陥れた最悪のシナリオが今現実になろうとしていた。じっと眼下を見詰めた。ビルと言うビルが倒壊し、ついで襲う大津波、生き残るのは僅かな人々だけだ。そしてその僅かな人々に自分が選ばれているのだ。恐怖と恍惚、戦慄と歓喜、奇妙に交錯する感情をもてあましていた。満の声も興奮してきている。
「7,6,5,4,3,2,1、ゼロ」
杉田と片桐は息を殺し、何事も見逃すまいと眼下を凝視した。その瞬間、満が歓喜に満ちた叫び声をあげた。あのしわがれ声だ。
「やったぞ、やったー。あれを見ろ。ビルというビルが崩れてゆく。街が波打っているのが分かるだろう。どうだ、俺の言ったとおりだ。そうだろう。わっはっはっは」
二人は必死で目を凝らした。しかし何も起きてはいない。遠くにみえる新宿の高層ビル群も、眼下の街並みも何ごともなく、静かに佇んでいる。
杉田と片桐が呆然として顔を見合わせた。
 しかし、二人には見えなくても、満には見えていた。何度も何度も夢に現れた未曾有の大破壊、満の復讐心を満たしてくれたあの日本沈没の序曲が始まっだ。満のしわがれた叫び声が響く。
「大竹清美、思い知ったか。俺はお前に救いの手を差し伸べた。しかし、お前はこの俺を警察に売った。バイタめ。お前の体はいまごろずたずたになって瓦礫の中に埋まってしまっただろう。ざま見ろ。渋谷で俺を馬鹿にした女達もしかりだ。」
満の吼える声は続く。杉田の顔が歪んだ。途方に暮れているような、泣き出しそうなその目は現実を見ようとはしていない。現実はあまりにも残酷すぎる。杉田は目を両手で覆い、大きな唸り声をあげた。片桐が左手で満の頬を打った。
「何も起こってはいない。大災害なんて起こってなんかいない。」
しわがれた声が轟く。
「お前には見えないのか。眼下で繰り広げられている地獄絵図が見えないのか?ほら五度目の大振動だ。見ろ、見ろ、あの東京都庁が崩れる、倒壊し始めた。」
満は歓喜の声を張り上げる。片桐はあんぐりと口を開けて満を見詰めた。
「こいつ、狂ってやがる。11時26分ってのは、自分が壊れる時間だってことか。」
そう呟くのがせいぜいだった。がくっと肩を落とした。こんな現実が待ち受けていようとは思いもしなかった。「なんてこった、なんてこった。」とつぶやき、次の瞬間、片桐は狂ったように笑い出した。
 満の恨み節、杉田のうめき声、片桐の高笑い。その空間は狂気が支配していた。猿轡を噛まされた五十嵐は、狂気の嵐のなか、ただ目を見張るばかりだ。
 暫くして片桐の高笑いが止んだ。操縦桿を握りながら後ろを振り返った。後部座席と格納スペースにぎっしりと積み込まれたありったけの食料と水。誰にも頼めず教祖と二人で運んだ。満の指示が性急過ぎて、十分に用意は出来なかったのだ。
これのために重雄を殺した。息子同様散々殴りはしたが、どこか捨ててきた息子の面影を求めていた。しかし重雄が自分達に加わろうとした時、無性に腹が立ったのだ。四人がようやく三月食いつなぐ程度の食料だったからだ。
ぎっしりと詰め込まれた食料、そこにどう紛れ込んだのか赤い靴下が一足垂れ下がっている。それが舌のように見え、まるで自分の浅ましさをあざ笑っているかのようだ。ぐったりとするような虚無、冷や汗が滲み出てきそうな羞恥、死んでしまいたかった。
 突如、片桐の心にふつふつと怒りが沸き起こった。そして教祖を睨みつけながら叫んだ。
「おい、教祖さまよ、どうする警視庁のヘリが追ってくる。逃げ切れない。おい、どうするつもりだ。えっ、どうなんだ、教祖さまよ。」
教祖は頭を抱え、下をむいたまま顔をあげようとはしない。教祖の口からもう呻き声は聞こえない。絶望を吐き出し終えたのか。片桐は、頭を抱え込み、がたがたと体を震わせている教祖を憎憎しげに睨みすえた。片桐がまたも吼えた。
「こんな男のために、俺は人生を棒に振ったのか。こんなクズみたいな男のために。」
惨めさを怒りに変えて叫んだ。
「女房も子供も捨てた。こんな男のために。」
叫んでさらに惨めさが増した。理不尽な思いが拳を動かし、その拳は唾を飛ばして喚き続ける満を殴りつけた。満はそれでも狂ったように喚き続ける。狂気は伝染する。片桐が怒りを爆発させた。
「教祖様よ、どう始末をつけるつもりだ。えっ、どう責任をとるつもりなんだ。俺がけりをつけてやろうか。この胸の拳銃で。えっ、どうなんだ。その取澄ました顔に風穴をあけてやろうか。」
 杉田がひょいと顔を上げた。その目は血走り、狂気と憤怒に満ちている。そして満に向かって突然叫んだ。
「貴様のせいだ。貴様が全ての元凶だー。」
いきなり後ろから満の首を絞めて強引に揺すった。満が喚きながら必死で抵抗する。杉田は右手で満の顔面を殴り始める。
「貴様が、貴様が、俺を破滅へと導いた。思い知れ、思い知れ、殺してやる。殺してやるんだ。いつかこうしようと思っていた。お前は俺の可愛い息子の体を乗っ取った。お前は俺から息子を奪ったんだ。何がペテロだ。貴様がペテロでないことなど最初から分かっていた。」
杉田はぐったりとした満を脇に押しやり、身を乗り出して前のロックを解除しドアを開けた。強烈な風がキャビンを吹き抜ける。両手で満の体を抱き起こし突風に晒した。
「何故、何故、お前は俺の前に現れた。お前のためにこんな現実に向き合うはめになった。殺しても飽き足らない。」
ぐったりとしていた満が目を開き、にやりと笑った。あのしわがれた声が響く。
「お前が、俺を呼んだ。あの日、会社をクビになった日、お前は絶望の淵で泣き喚いた。何とかしてくれってな。魂を売ってもいいって。だから俺が来てやった。俺を忘れたのか。あの世で一緒だった俺を。だからいい夢を見させてやった。お前は何もかも手に入れた。もう思い残すことはないだろう。」
一瞬、杉田の顔に怯えの色が走った。しかし怒りの方が優った。
「訳の分からないことを言いやがって、貴様など殺してやる。」
杉田は満のジャケットの襟首をつかみ、キャビンから落そうとする。満が振り返り叫ぶ。
「そうか、俺を殺すのか。それもいいだろう。あの世で待ってる。お前も早く来い。はっはっはっはっは」
「黙れ、黙れ、黙れー」
次の瞬間、満をキャビンから突き落とした。満の体が遠ざかる。すぐさま後方のドアを開けると、身を乗り出して落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん!」
杉田の視線の先、その足下に、うごめく人の姿があった。
「何でこんな処に? いったい誰だ貴様は?」
杉田の怒鳴り声は風圧でかき消された。

    (三)
 石井は恍惚の中にいた。その恍惚は・・あれに近いと思った。と言うことは、死に近づいているということか?かつて石井はナイフで刺されて死にそうになったことがある。心臓の鼓動とともに肩から血が噴出していた。その時、石井は朦朧とした意識の中で強烈な恍惚感を味わっていたのだ。
 医者に言わせると、それは脳内麻薬物質が大量に放出されるために起こる現象ということになる。しかし、石井はあの微妙な感覚は単にそれだけのものではないと確信していた。その微妙な感覚とは、がんじがらめに縛られた物質から、つまり自らの肉体から徐々に開放されてゆくという感覚なのだ。
 この悦楽は肉体のあらゆる快楽とは異なる。しかし、ある時、・・あれに似ていると思った瞬間がある。それは一日ゲレンデで滑って、あのきつく締め付けていたスキー靴を脱いだ瞬間だ。足全体に感じた開放感がその悦楽にほんの僅かに似ていると言えないこともない。
 その微妙な開放感を千倍にも、万倍にも増幅させた感覚なのだ。肉体とその周辺の境が次第に希薄になって、体が溶け出すような感覚。肉体と言う重い鎧を脱ぐことによる開放感をも含んで、空と一体化するような感じがした。
 そして思った。神は優しいと。たとえそれが脳内麻薬物質によって引き起こされた現象であったとしても、死を迎える人間に苦痛を和らげる仕組みを作っている。そのことが神は優しいという、その証左としか思えなかったのである。
 視界に影が走る。石井の視線は一瞬、声は聞こえないものの、けたたましく高笑する満の顔を捉えた。落下してゆく満の顔には恐怖の色はない。何が可笑しいのか小さく遠ざかる顔はまだ笑っていた。
 ふと気配を感じて見上げた。髪を振り乱した男と視線が合う。目は血走り頬が風圧を受けて小刻みに震えている。何かを言ったがその声は聞こえない。誰なのか思い出そうとするが朦朧とした脳髄は何の反応も返してはこない。
 男は消えたかと思ったらすぐ姿を現し、憎々しげに睨みすえ、腰を落とすと脚でパイプにつかまる石井の拳を蹴り始めた。痺れかけた手には痛みは感じないものの、パイプを掴んだ指が徐々に力を失ってゆく。ずるずるパイプから指が滑る。
 渾身の力を込めて握ろうとするのだが、指先が震えるだけだ。一瞬、走馬燈のようにこれまで歩んできた人生の断片が浮かんでは消えた。これがあれか!と思った瞬間、手が完全にパイプから離れた。体が完全に宙に浮いた。
 腹にどすんという衝撃を受け我に返った。まだ体はヘリコプターから放たれてはいない。少し前、手元があやしくなってきたので、ベルトをパイプに通していたのだ。体はそのベルトによってヘリコプターと繋がっていた。
 男は舌打ちして、腰を浮かせてパイプに脚を掛けた。両足を器用に操り、ベルトをはずそうと試みている。しかし、石井の全体重を支えるベルトはそう易々とはずれるものではない。男は意を決してパイプに降り立った。朦朧とした意識の中、石井は覚悟を決めた。

 その少し前…。
杉田は、満をキャビンから突き落とした。すぐさま後方のドアを開けると落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん、何だ?誰だ貴様は。」
杉田が振り返り片桐に言った。
「片桐、銃を貸せ。もう一匹地獄に叩き落してやる。石井だ。香子をたぶらかした奴だ。殺してやる。おい、銃をよこせ。」
片桐が答えた。
「お前の命令は聞かん。それに重雄を撃ったのが最後の弾だ。そんなに殺りたければ蹴落とせばいいだろう。その自慢の長い脚でよ。」
二人は睨みあった。教祖は力なく笑い、背中を向けしゃがみこんだ。片桐が五十嵐に声を掛けた。
「おい、お嬢さん、恋人が下にいる。」
五十嵐は驚いて片桐を見た。片桐がにやりと笑う。意味が分からない。首を左右に振って意味を問う。片桐が顎をしゃくった。五十嵐は片桐が示した方を見た。教祖が手すりにつかまり、片足で何かを蹴っている。片桐が言った。
「教祖を蹴落とせ。恋人が危ない。」
はっとして教祖の後姿を見詰めた。教祖は下にいる石井を蹴落とそうとしている。思わずかっと血が騒いだ。教祖は両側にある手すりにつかまって、右足で石井を蹴っている。しばらくして、下に降り立った。五十嵐は咄嗟に手すりを握る教祖の右手を蹴った。教祖の右手がはずれ体が前に傾いた。
 すかさず思い切り左手を蹴った。その手が手すりから滑った。くるりと体をこちら側にむけた。一瞬途方にくれるような表情を浮かべ、ついで恐怖に顔を引き攣らせた。ゆっくりと落ちて行く。五十嵐は呆然と立ち尽くしていた。
「おい、ロープを切ってやる。こっちに腕を向けろ。」
後ろで片桐の声が聞こえた。

 石井は飛行するヘリと一心同体になっていた。パイプと平行に吊られている状態で飛んでいるような感覚を楽しんでいた。空気が薄く、さらに冷気が体の体温を奪い、意識は朦朧としていた。しかし体全体は恍惚に包まれていた。
 このまま死を迎えてもよいと思った。口を大きく開けると強烈な風圧が唇をぶるぶると震わせ体の中を空が通り抜ける。地平線は丸みを帯びその周辺は雲に覆われその輪郭は定かではない。
 左に島影が見える。伊豆七島だろうか。右には雲のまにまに富士の頂が顔をのぞかせている。ふと、石井の視線は眼下の雲をとらえた。雲が踊るように波打ったからだ。雲の波は渦を巻きそして一瞬にして消えた。その直後、同じ位置に再び雲が現れたのだ。その雲は今度はゆっくりと波打ちながら舞うように移動を始めた。そして一瞬のうちに再び消えしまった。まるで魔法でも見ているような光景だ。ふと、何かがすっと脳膜内に入り込んだ……。
 衝撃が走った。雷にでも打たれたような衝撃だ。思わず叫んだ。
「何てこった、何で、何で、こんな簡単な理屈が分からなかったんだろう。神がこんなに身近に潜んでいたなんて思いもしなかった。何のことはない、空が神じゃないか。今、神が見せてくれた。今、空が雲を作ったように、空が宇宙を創造したんだ。ってことは、空が神ってことだ。そして雲が波打ったように、空も波打っていたんだ。」
全てが一瞬にして見えた。歓喜が石井の体内に入り込んできた。心の底から歓喜がこみ上げてきて、そしてはじけた。石井は恍惚として笑い続けた。その笑い声は強烈な風圧によって瞬時に掻き消された。しかし歓喜はそれを押しのけ後から後から湧き出てくる。
 ふいに五十嵐が顔をのぞかせた。何か叫んでいる。石井は我に返った。五十嵐は聞こえていないと分かるとヘリから身を乗り出してくる。石井もパイプに掛けた手に最後に残った力を振り絞り、体を持ち上げた。二人の顔と顔が近づく。
「上がってもいいって。」
「何だって?」
「片桐さんが、中に入りなさいって言っているわ。」
朦朧とした意識に安堵感が広がった。途端に恐怖が襲ってきた。体中が震えていた。今、自分の置かれている危険な状態を意識し、高所恐怖症が甦った。五十嵐が叫んだ。
「さあ、この輪に体を通して。」
ロープの先になるほど丈夫そうな皮の輪が繋がっている。それを体に巻きつけ、そしてベルトをはずした。ロープがぴんと張り、石井の体は持ち上げられた。キャビンの中に引っ張り込まれ、石井は五十嵐の体を抱きしめた。五十嵐の柔らかな体がその体温を伝えてくる。片桐が声をかけてきた。
「下に取り付いたのは分かっていた。よく落ちなかったな。」
張りのある大きな声だ。
「ああ、まだ死にたくなかった。」
震えながら答えた。
「お前さん、優秀な刑事だったらしいな。昔の仲間に調べさせた。」
五十嵐が聞いた。
「ということは、片桐さんも警視庁?」
「昔のことだ。もう、忘れた。それよりお似合いだな。」
「・・・・」
「二人のことだ。」
石井は五十嵐を強く抱きしめた。暖かい肉体だった。
「結婚するのか。」
「ええ、そのつもりです。」
石井が答え、五十嵐はにこりと微笑んで石井を見上げた。
「まったく見せ付けるね。」
これまでのドタバタ劇が嘘のようにゆったりと長閑な時間が流れている。石井がふと思い出したように聞いた。
「さっき落ちていったのは教祖ですか?」
「ああ、このくそ寒いのに海に飛び込んだ。」
「あれがやはり教祖だったんだ。その前に満が落ちていったようだけど?」
「ああ、教祖が突き落とした。満は生きたままあの世の地獄に落ちていった。俺は生きたままこの世の地獄にいる。似たもの同士ってことさ。」
 片桐がことさら大きな声を上げて笑ったが、二人は黙ったままだ。
次第に体温が戻ってきている。石井は五十嵐を抱きしめ、瞑目している。言葉が途切れ、片桐は操縦桿を握り前方を見詰める。石井に話しかけてきた時、片桐は一度も振り向かなかった。それに無理に声を弾ませているように思え、もしかしたら泣いているのではないか、石井はそんな気がしていた。
 石井は五十嵐を抱く腕に力を込めた。五十嵐は石井の胸で寝息をたてている。ふと安堵の内にあの歓喜が蘇る。石井は思う。真理は単純であればあるほど気付きにくい。しかし、眼下に見えた雲の動きは、石井にインスピレーションを与えてくれた。
 世界的な量子力学の権威であるデイビッド・ボームが言う。「1立方センチの中のエネルギーは、宇宙の今までに知られているあらゆる物質の総エネルギー量をはるかに超えている」と。つまり1立方センチの空は宇宙を創造するほどのエネルギーを秘めていると言うのだ。
 空には無限のエネルギーが内蔵されている。何故なのか。それは、宇宙がダイナミックに躍動しているからだ。つまり宇宙は、我々が死と再生を繰り返すように、星や銀河が絶えず生成し、そして消滅するというダイナミズムの場なのだ。
 天文学者達は、今までなかったところに銀河が突然生まれると、こともなげに言う。信じ難いことだが、これは事実だとすると、空は、死滅した星や銀河の残滓を吸収し、新たな生命を、つまり新たな星や銀河を生み出すために絶えず素粒子を放出し続けている。そのために無限のエネルギーが内蔵されているのだ。
 この理屈は所謂定常宇宙論的だが、原初の大爆発で宇宙が出来たとするビッグバン理論でもかまわない。最初に空=無があった。その空が突然大爆発して時空を押し広げ、同時に宇宙を構成する全ての物質を放出した。そして空は、今も無限に広がる宇宙を創造し続けているということになる。
 星や銀河が生成と消滅を無限に繰り返す宇宙も、或いは無限に膨張する宇宙も、無限のエネルギーを有する者のみが創り得るのである。つまり宇宙の創造者は空だ。そして全ての宗教に共通する教義は、神が宇宙を創造したということ。だとすれば、宇宙を創造したのは空なのだから、空こそが神ということになる。
 「神の臨在」という謎も簡単に解ける。神は何時でも、何処にいても、それが誰であろうと、その者と共にあるという「神の臨在」という問題も、空は我々を包み込んでいるのだし、言い方を変えるなら、我々は誰彼なく空に抱かれているのだから疑問でも何でもない。空は人間を、そして宇宙さえも包み込んでいるのだから。
 物質の本質についても、石井の得たインスピレーションは非常に単純なものだった。物質は突如何もない空から生じる。どのように?実は空自らが振動して素粒子へと変貌するのである。物質の最小単位と言われるクオークは空の振動によって作られる。
 我々の体を構成する全ての原子は空の波動によって生じる。つまり我々は空から生じたというより、実は、空がその姿を変えているに過ぎず、物質化した空なのである。
 この事実は、我々の心或いは意識というものも説明出来る。つまり、我々が空そのものであるなら、そこから生じる想念波動もやはり空ということである。物質化した空から生じた想念化した空であり、心とも意識とも呼ばれる魂そのものである。それが絡み合い縁を形成しながら集合的無意識を構成する。
 現代物理学によれば、宇宙は四つの力によって支配されていると言う。ケーシーの「物質界に現されている宇宙緒力の創造エネルギーと一つになる」という言葉は、この四つの宇宙諸力の創造エネルギーの源である空、すなわち神の元に帰るという意味となる。その時、個としての波動は止み、空と一体となるのである。
 ふと、石井は苦笑いを漏らした。自分の勘違に気付いたからだ。実は、集合的無意識は仮の宿にしか過ぎず、人類が真に帰るべき『母なる海』とはこの「空」であったのだ。物質化した空、つまり堕ちた天使が、物質から開放され、天(空)に帰るには純な魂となって昇華するしかない。『母なる海』はそれを心待ちにしている。

 黙想する石井の顔に満足げな笑みが浮かぶ。その時、片桐が再び大きな声を響かせた。
「さあ、ビルに着陸する。降りる用意をしろ。キャビンのドアのロックを外せ。おいおい、ポリ公がうようよいやがる。まさに大捜査線だな。」
高らかに笑っている。ヘリが屋上へ下りてゆく。警官が着陸地点を取り巻くように集まってきた。
 ヘリが警官達が作る輪の中心に着地した。エンジンが切られた。ロータはその回転速度を急速におとしてゆく。警官達が近寄ってくる。

 片桐が始めて振り返り微笑みかけた。
「これも何かの縁だな。」
「ええ、私もそう思います。きっと前世でも会っていると思います」
片桐の視線が揺れた。そして僅かに頷くと、微笑んだ。石井も片桐を見詰めたまま笑顔を返した。

石井は立ち上がり、
「それじゃあ、先に下ります。」
と言うと、五十嵐の手をとりキャビンのドアを開けた。
 田村警部が前の窓ガラスをドンドンと叩いた。前のドアはロックされたままだ。片桐が待っていろとばかり、田村に手をふる。そして足元に置いてあるアタッシュケースを開けると、拳銃のカートリッジを取り出して装着した。
 それに気付きもせず、田村警部がまたドンドンと叩く。石井と五十嵐が降り立つと、後部座席に入れ替わるように小林刑事が入っていった。
 五十嵐の肩を抱き、歩き出した直後、田村警部の悲鳴のような声、続きバンという銃声が響きわたった。驚いて二人で振り向く。しばらくして小林刑事が顔を血だらけにしてキャビンから降りてきた。その足取りは覚束ない。
 一瞬、胸が凍るような感覚に襲われた。田村警部が恐怖に顔を引き攣らせ後退りする。その時、小林と同年輩の初老の刑事が近寄り、その体を支えようとした。小林刑事はその手を振り払い、尻のポケットからハンカチを取り出し、血だらけの目の辺りを拭った。そして言った。
「野郎、死ぬのは勝手だが、人様の迷惑も少しは考えろってえの。血を浴びせやがって、何も見えやしねえ。それに一張羅がだいなしだぜ。」
 ほっと胸をなでおろし、石井は五十嵐を抱き寄せ歩き出したが、ふと、足を止め振り返ると、血に染まった風防ガラスに向けて合掌した。五十嵐も慌ててそれにならう。その頬を涙が伝う。
 二人は再び歩き出すが、五十嵐の涙は止まらない。石井は立ち止まり、その肩に手を置き語りかけた。
「いいか、片桐さんはようやくこの世の地獄から逃れられたんだ。今はきっとほっとしている。それに男としてケジメをつけたかったんだ」
「それは分かっている。でも、何であんな教祖と出会ってしまったのかしら。もし、出逢わなければ、きっと立派なデカとして、人生を全うできたはずよ」
「それはね、神様から与えられた試練なんだ」
「神様?」
「そう驚くな、俺は神様を信じているんだ。その試練に、片桐さんは押しつぶされてしまった。でも、きっと次はウマくやると思う」
「次って、つまり、輪廻転生ってこと?」
「ああ、その通り。人生は一回こっきりじゃない、何度でもやり直せる」
「ふーん、でも、そうかもしれない。そう思ったら何だか気が楽になったみたい」
「そうだ、そう思えばいい。人生に失敗はつきものだ。でも、生きている限り、やり直しはきく。たとえ死んでもまたチャンスはある」
「分かった、そう思うことにする」
二人は頷き、ほほえみあい、そしてまた歩き始めた。

 屋上のドアの手前で来て、五十嵐が「あれっ、いけない」と言って立ち止まった。石井が何事かと顔を向ける。
「忘れてた、山口君、倉庫に監禁されたままだわ。助けてあげないと。」
にこりとして石井が答えた。
「よし、二人で助け出そう。」
「でも山口君、真治のこと分かるかしら。ひどい顔よ。」
「そんなにひどいか。」
 二人は笑いながらエレベーターに向かった。

 石井の前に、足早に階段を駆け下りる五十嵐がいる。ちょっとびっこを引きながら石井がその後を追う。五十嵐の後ろ姿を見ながら、石井は思った。「空」のことは五十嵐だけには話そうと。
 笑われるかもしれないが、それはそれでかまわない。あの時、神が富士山頂で見せてくれた光景、雲が波うち、舞い踊り、そして消えた。再び現れると今度はゆっくりと舞い、そして一瞬にして消失したのだ。
 単に水蒸気の気温による変化と気流の悪戯に過ぎないのだろうが、それは神が石井に真理を感得させるために起した現象なのだ。石井は一人で納得し、にこにこしながら何度も頷いた。窮地を脱した安堵感と難問を解いた爽快感が心を満たしていた。
 しかし、石井は、遅れてくる石井をちらりと見上げる五十嵐の目に猜疑の色が宿っているのに気付いてはいない。五十嵐の脳裏には教祖の言った言葉がこびりついている。
 教祖は、石井が香子をたぶらかしたと言った。「たぶらかした」とは、いったいどういうことをしたのか?嫉妬が渦巻いている。どうやら、二人の間に、ひと波乱ありそうである。


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