ケイタイの向こう側の友へ

     

第五章 

 翌日から水谷の目の回るような生活が始まった。水谷はやはりミスを犯していた。それから数日徹夜が続き、その後も家に帰れずサウナ泊まりが日常化していった。幸いなことに、水谷は下水道の管理責任者であったし、部下は入社1年目の女性技術者である道上と2年目の菅井、そしてCADのアルバイト一人しかおらず、ミスの修正は水谷が責任者としてやるしかないため、自宅謹慎も給与カットも避けられたようだ。
 そんな大変な時でも、たまに四方田が残業していると、にこにこと近づいてきて誘いを掛ける。冷蔵庫に隠しているビールで一息入れるのだ。営業部か下水道課のどちらかには確実にビールの在庫はある。缶ビールで乾杯すると水谷が自慢するように言った。
「やっぱり、あの日の勘は当たったな。俺、今回はいやーな予感がするって言っていたろう。その通りだった」
「つまんないこと自慢すんじゃないの。それより見通しはどうなのよ」
「相当時間がかかりそうだ。俺自身がCAD使えればもっと早く進むんだが、若い奴にここをこうやって、あそこがこうでって指示をだすわけだから結構時間がかかるんだ。出来上がったのを見ると指示通りじゃなかったり、ほんと、大変なんだ」
「でも、良かったじゃない。自宅謹慎も給与カットもなくて」
「とんでもない、今度の仕事にけりが付いたら、バッサリやられると思う。何とか一ヶ月で済めばいいが。女房には言ってあるんだ。でも、道路課の今井、可哀想だよな、二ヶ月の自宅謹慎だってよ。二ヶ月間給与なかったら、ウチだったら本当に干上がってしまう」
「でも若い二人が育ってきて良かったじゃないか。2年目の菅井なんてだいぶ技術屋らしくなってきたじゃない」
「あいつは良いんだけど、道上がまいっちゃうよ」
「道上さん、どうかしたの」
「誰にも言うなよ、これ、秘密だからな。実は、あいつ妊娠したらしい」
「えっ、結婚していたの?」
「いや、同棲だ。そんで、ゴムしないでやってたから妊娠しちゃったんだ」
「えー、彼女そんなことまで打ち明けたの」
水谷が四方田をまじまじと見詰めて口を開く。
「馬鹿言うなよ、四方田。俺の性格知ってるだろう。女性とそんな話出来るわけないじゃないか。ゴムしていたら妊娠するわけないだろう。ゴムしていなかったっていうのは、俺がそう考えただけだ」
「何だ、そんなことか。それより彼女、いつまで勤めるって?」
「今月一杯だって。参った。この忙しいときに辞められちゃったら目も当てられないよ。それで総務に増員願いを出したらけんもほろろだ。こうやってビール飲むのも知っていて、ビールを止めれば効率が上がるなんて言われるし」
「一息入れてるだけじゃないか。根を詰めるよりよっぽどいい。ビールは水谷さんにとって水みたいなもんだし」
「あれかなー、俺に二人分働けってことかなー、徹夜をやれってことかなー」
水谷にしてはいやに弱気な口調に驚いた。
「そんなことやってたら体壊してしまうよ。水谷さん、体が一番だ。水谷さんは下水道の管理技術者なんだから、堂々と胸をはっていればいいんだ。辞めても下水道の有資格者なんだからどこだって雇ってもらえるさ」
「そうだな、でも、四方田みたいに転職に慣れた人間はいいけど、ずーっとひとつの会社に勤めてきた人間にとって会社を辞めるってことは結構辛いことなんだ」
四方田は転職をもっと気軽に考えていた。転職はずーっとひとつの会社に勤めてきた人間にとってそんなに辛いことなのか、と改めて認識した。水谷がビール缶を潰し、立ち上がった。
「さて、もうひと踏ん張りするか。あーあ、今日もサウナ泊まりだ。悲しいなー」
「水谷さん、早くその仕事かたずけて、また飲みに行きましょうよ」
水谷が振り向いてにこりと笑った。



 翌月、辞めた道上から電話があり、近くの喫茶店に呼び出された。道上とは何度か水谷と一緒に飲んだことはあるが、そう親しいわけではない。四方田は下水道課のささやかな送別会に部外者でただ一人参加している。事務所を出ようとすると、安西から声がかかった。
「今日は用事があるんだ?」
「いえ、この間辞めた道上さんが、何か話したいことがあるって、電話してきたんです。すぐそこの喫茶店にいるそうなんで、ちょっと会って来ます」
「ふーん、じゃあ、時間があったら例の蕎麦屋にいるから来てちょうだいよ。でも2時間以上いないからな。断っておくけど」

 本郷通りを挟んだ斜向かいにあるその喫茶店は煙草を吸えないので、入ったことがなかった。ブレンドを注文し中を見ると、道上が一人掛けの席に腰を下ろして本を読んでいる。コーヒーを持って道上の前に立った。道上が顔をあげ、微笑んだ。まだ腹は目立っていない。道上が手で前の席へ促す。
「予定日はいつなの?」
「来年の一月です。まだ四ヶ月ですけど、以前流れてしまって、旦那が心配してどうしても辞めろって言うものですから。水谷課長には本当に無理を言ってしまいました。もっと助けてあげたかったのですけど」
「しかたないよ、兎に角、無事にお子さんを産むことの方が大切だ、で、今日はどうしたの?」
「実は、水谷さんのことなんですけど、私心配で心配で、いてもたってもいられなかったんです。送別会のあの日まで、後任が来ないってちっとも知らなくて」
「そうらしい、総務から後任人事はけんもほろろに拒否されたらしい」
「私が入って来たとき、嘱託さんがいましたでしょう。あの方が辞めたときも、補充が拒否されたんです。あの頃、下水道課は私が入ってようやくゆとりが生まれたんです。それが、嘱託さんが辞めて、私まで辞めちゃって、5人でやってたのに今3人しかいません」
「ましてミスを犯したのはこっちだから、しばらくはただ働きだ」
「ええ、菅井さんは別の仕事で忙しいから、CADのアルバイトさんと二人でこなさなければなりません。とっても間に合うような仕事量じゃないんです。まして無償ですから下請けもつかえません。水谷課長は精神的に弱いだけに心配なんです」
「ああ、噂は聞いたことがある。でも僕が付き合った限りでは、そんな風に見えなかったけど」
「ええ、水谷課長は四方田課長といるときだけほっと安心できるんではないでしょうか。あの笑顔見れば分かります」
「実をいうと、僕もそうなんだ。あんな人初めて会った。でも、性格は行って帰ってくるほどちがうけど不思議と自分に似ていると思うところがあるんだ。話も合うしね」
「本当に会社側のやり方には腹が立ちます。社長は水谷課長を嫌っているんです。でなければ仕事が増えてるのに人を減らすなんて出来っこないですもの。兎に角、水谷課長をを宜しくお願いします」
「ああ、十分気を付けておくよ。道上さんも優しいお母さんになりそうだ。丈夫な赤ちゃんを産んでくださいね」
 道上は水谷の精神的もろさをその後もしきりに話題にしたが、四方田はさほど心配はしなかった。四方田に見せる天真爛漫な笑顔には不安の欠片も見いだせない。道上と別れて、いつもの神田駅近くの蕎麦屋へと急いだ。携帯の時計をみると、それほど待たせてはいないが、安西一人であることを祈りながら店へと入って行った。

 四人がけのテーブルには安西と高橋がいた。二人はいつものように額を突き合わせひそひそ話に夢中で四方田が入って来たことに気付かない。「貴方が立たなければこの会社は潰れちゃいますよ」という安西の言葉が耳に入った。四方田がわざとらしく咳をして近づいてゆく。二人は四方田に気付き、額を引くと話を中断した。安西がにやっとして口を開いた。
「道上さんの話はなんだった?」
「下水道課に対する会社の仕打ちはひどすぎるって。仕事量に見合う人間を配していないと言ってました。私もそう思います。水谷課長は毎日サウナ泊まりですから」
高橋が顔をしかめ反論した。
「そう言うけど、この業界じゃあ、そんなこと当たり前だって。納期前になればどこの課だって同じようにやっている。まして、今回のことはあいつのミスなんだから、それを取り戻してもらわなければ、会社が損害を被る。俺も、社長の考え方に全面的に賛同はしかねるけど、今回は水谷に頑張ってもらいたいと思っている」
「そうですね、でも、水谷課長は精神的に弱いところがあるとか…」
「企業はそんな個人が精神的に弱いとかなんとかなんて、かまってられないよ。精神的に弱くてついて行けないのなら、脱落するしかない。後任人事のことだってそうだ。いったい下水道課がいくら稼いでるよ。全体の割合から人件費が見直された結果、人が減った。ただ、それだけのことだ」
安西も口を出す。
「道上さんは水谷の精神的脆弱さが心配なんだろうけど、あいつを知っている奴なら、年度末の水谷の錯乱は毎年のことだから何とも思わないよ。時間がたてば元に戻るんだし。今年はむしろ落ち着いているくらいだ。四方田も道上も付き合いが短いから大袈裟に考えすぎる」
「そうですか、それならいいんですけど」
高橋がこの話にけりをつけた。
「とにかく、今は大事なときだ。受注激減、企業として存亡の危機にある。今を乗り切るには誰もが死にものぐるいで働くしかない。営業部だっていっしょだ」
5時になれば飲み屋へ直行の営業部にはそぐわない言いようだが、かといって役所が閉まれば営業部はやることもない。

 酔いも手伝って安西と高橋の口が軽くなった。安西がちらりと四方田を見やって、まあ、漏らすことはあるまいといった顔で、高橋に顔を向ける。
「役員も気持ちは同じですよ。誰かが言い出すのを待っている。社長はやりすぎた。この会社は公団関係の天下り先だった。だから役所の非効率をそのまま受け継いでいるところはある。それを打破しようとするのはいい。だけどこの会社が培ってきた暖かさ、優しさ、思いやりの心を全て破壊しようとしているとしか思えない。人事も自分の好き嫌いがまかり通る。誰だって先行きに危機感をもっています」
高橋も四方田に気を遣いながら、口を開く。
「そうは言っても、安西さん、社長は俺にとって恩人なんだ。技術士の試験に合格できたのもあの人のおかげだし、俺をここまで引き上げてくれたのも、あの人だ。恩人に弓引くようなまねは出来ない。分かってくれよ」
「これは聞き捨てできない。300人の仲間を見捨てると言うんですか?」
「そんな大袈裟な、そんな話じゃないって」
「そんな話ですって。今年の末には大規模なリストラを実行しますよ。この四方田だって標的だ。何が気にくわないのか分からないけど、社長は四方田を嫌っている」
「大丈夫だ、四方田は俺が守る。四方田の仕事を引き継げる人間なんていやしない。それは分かっている」
四方田はその一言で思わず目頭が熱くなった。自分の仕事内容を分かってくれていると思うと、ほっとする思いだった。高橋にそう吹きこんでくれている安西に心から感謝した。しかし、その仕事のために社長と少なからず接触を持たねばならず、そのために社長の嫌がらせに合うことになるのが、何とも皮肉な巡り合わせとしか言いようがない。

 指名参加資格申請という厄介な仕事がある。国の省庁、地方の各自治体に対し、それぞれの官庁の発注を受ける資格があることを書面で申請する手続きである。国が認めるならそれを以てよしとすればいいのに、各自治体も同じように書面を提出しろというのである。それぞれ独自の様式があり、民間企業はそれに応じるしかない。
 そのなかでも厄介なのが、社長の所得証明を提出させる自治体があることだ。日本でただ一つの自治体である。社長だって自分の年間所得を一社員に見せたくはない。一度、詳細を聞くためにこの自治体に問い合わせたことがことがある。すると、担当者が、「ここまで厳しくしているのはウチだけですよ」と自慢げに話していた。くだらないことに独自性を発揮するのも、いい加減にしろ、と怒鳴りつけたかった。
 四方田はしかたなく、市役所で封をしてもらい、封をしたままその自治体に送るとして社長の了解を得ている。しかし、封をする前に四方田が見ないとは限らないのだし、それで社長は納得するわけがなく、その時期になると、社長の委任状を得ようとする四方田との間にある種の緊張状態が生じるのである。四方田は関西のその自治体を心から憎んだ。

 今年は空梅雨で、天気予報に反し夜半から雨など降らず、四方田は、雨傘を振り回しながら星降る夜を千鳥足で神田駅へと向かう。後から来る二人を振り返ると安西が高橋にからみついていた。
「痛い目を見るのは、あんただよ。あの人はあんたを潰そうと虎視眈々と狙っている。常務会の雰囲気で分からないのか?」
「いや……」
「まったく人が良いのにも程がある。俺はもう三ヶ月でおさらばする。後はどうなろうと知ったこっちゃないがね」
「安西さん、何度も言うけど、俺は社長から安西さんを慰留するよう命令されている。俺の顔を何とか立ててくれ。頼むよ」
「へん、冗談じゃないよ。常務会で同じ空気吸うと思っただけで虫酸が走る。あんたは営業本部長から管理本部長になるのが出世だと思っているらしいが、とんでもない。ババを引かされただけだ」
その言葉に四方田はすぐさま反応した。
「高橋さんが営業本部長でなくなる?じゃあ、営業本部長は誰なんです?」
高橋を置いてきぼりにして安西が四方田と並んだ。
「今度の営業本部長は榊原第二技術部長だ。俺のポスト、営業部長は佐伯第二技術課長」
さわさわという冷たい血の流れが背筋を伝う。この二人の冷たい視線にどれほど耐えてきただろう。虐め、嫌がらせにこれまで何度泣かされたか。
「安西さんは本当に辞めてしまうんですか?残るという噂は?」
すがるような気持ちだった。
「最後の望みも絶たれた。高橋営業本部長は政権交代の度胸はない。だとしたら、俺が残る意味もないってことだ。あの人が立つのであれば、残ったかもしれないがね」
「高橋さんは…駄目ですか?」
「駄目だ…、管理本部長に抜擢されるんで舞い上がっている。馬鹿野郎って言いたいよ。まったくお目出度いとしか言いようがない。四方田も覚悟を決めろ」
「ええ、あの二人が私の上司になるというのであれば、社長の意思が、ようく分かりました。二人は社長の遠隔操作のロボットですから」
 その三ヶ月後、安西は会社を去った。送別会で挨拶する高橋は管理本部長という新たな職責の重圧を述べ立て、安西の慰留が不首尾に終わったことを残念がった。この時、高橋は安西が言った「ババを引かされる」という言葉の意味を理解していなかったのだ。

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