ケイタイの向こう側の友へ

     

第六章 

 安西の退職は四方田の内面に複雑な波浪を残した。吹きすさぶ風によって引き起こされる不安という名の波浪である。社長の防波堤になってくれていた人間を失った。安西がいたからこそ社長も遠慮していたところがある。その存在が消えれば、もう社長のやりたい放題になるのは目に見えている。四方田は孤独には強いが、不安には弱い。
 そして高橋営業本部長も8階へ引っ越した。役員室を与えられ、満足そうにちまちまとやっている。代わりに四方田を目の敵にする榊原営業本部長、佐伯営業部長が、四方田の真後ろ、そして斜め後ろに控えている。ヒヤリとする空気はなにも効き過ぎる冷房だけのせいではない。
 そんな雰囲気にも気付かず、水谷がにこにこしながら近づいてくる。四方田の顔が思わずほころぶ。今の四方田にとって水谷だけが心の支えになっている。その水谷が四方田に大きな声で話しかけてきた。
「四方田、新潟市から指名が来たって?」
「ああ、来た来た。だけど、談合の取りまとめ役のコンサルに電話してみたけど、もう談合組織は解散していて、どうにもならないらしい。もしやる気があるなら思い切った価格で入札してみたらどうです、なんて言われたよ。積算価格の3割以下なら落札出来るらしい。どうする、やってみる?」
「四方田、勘弁してくれよ。3割以下じゃあ、俺の給料もでない」
「勿論冗談ですって、ご安心を。それより、どうなんです、仕事の方は?見込みは立ちました?」
「うーん、何と言っていいのか?」
真後ろと斜め後ろからの視線を感じた。案の定、榊原営業本部長の声が響く。
「おい、水谷、ぶらぶらしている暇はないんじゃないか。一枚でも二枚でも図面を引いたらどうなんだ。お前のミスでどれだけ会社が損害を被ったか少しは反省しろよ」
水谷の顔が一瞬曇った。それでも気を取り直して答える。
「分かってますって、重々承知のすけ。みんな俺が悪いんです。さあ、仕事仕事」
四方田の脳みそが沸騰する。社長の腰巾着が…、と言う言葉が喉元まで出かかった。ほんの少し前、四方田は佐伯営業部長とも言い合いになった。
「分かりました。今日中に仕上げておきます」
と言って、言い合いに終止符を打ったのだ。

 終業チャイムと同時に榊原と佐伯が席を立った。その後ろ姿に舌打ちをくれ、パソコンを覗き込む。終電車に何とか間に合わせたいという気持ちでキーボードを叩き続けた。しばらくしてエレベーターから降りてくる水谷と目があった。水谷が微笑む。意味も分からず四方田も微笑み返した。
 夢中で仕事をしていた。水谷が横に立っているのにもしばらく気付かなかった。ふと、顔をあげると満面に笑みを浮かべる水谷と目が合った。水谷が嬉しそうに口を開いた。
「四方田、この笑顔見てくれよ。この笑顔の意味が分かるか?ようやくアルバイト雇えることになったんだ。これで、少しは楽になれる。明日からそのアルバイトが来るんだ。これでCADのアルバイトが二人になる。効率があがるぞ」
午後9時を過ぎたていた。四方田もキーボードから手を離し、にこりと微笑んだ。
「良かったじゃない。いくらなんでも、課長しかいない課なんてあり得ない」
「そうじゃないよ。菅井は第三技術部兼任だから、まだ0.5人はいることになる。それに建築の連中が3人もいる」
 下水道課は下水道と建築の技術者が同居しており、建築屋は下水道の知識も技術も持ち合わせていない。
「何を馬鹿なこと仰って。急を要する仕事なんだから、もっと前からアルバイトを雇って一挙に片をつけるのが一番だった。下請けだって総動員させればもっと早く終わったはずだ」
「そう言うなよ。ミスを犯したのは俺なんだから。何も言えないよ。それより、四方田の方が心配だ。たいぶキツく当たられているみたいじゃないか。やけを起こすなよ」
「大丈夫、俺だって伊達に転職を繰り返してきたわけじゃない。気持ちを押さえる修練だけは積んできた」
「どうだか。今日も時々四方田の顔を見てたけど、課長と言い合いしてたとき、額のその縦皺、遠くからでもくっきり見えてたぞ。兎に角、四方田は顔が素直すぎるよ」
「勿論分かっているさ。でも、相手は俺を辞めさせたい。俺は少しでも先に延ばしたい。その攻防戦だもの、心証が良かろうと悪かろうと大差ないよ。今更柔和な顔をしたところで、この状況を変えることなんて出来っこない」
「そんなもんか?どうにもならない状況ってあるのか?」
「ああ、ある。俺の場合がそうだ。もうどうしようもない」
水谷が大きくため息をついた。四方田は再びパソコンと向かい合った。水谷はその場を去ろうとしない。四方田の机の書類を取り上げ読み始める。
「ああ、これか、この問題で四方田は残業しているんだ」
「そう、佐伯営業部長が今日中だって言うから、仕上げるしかない」
「まだ、かかりそうなのか?」
「ああ、もう少し」
水谷はその書類に目を落としている。実を言えば、明日に延ばしても問題はなかった。ただ、意地で居残っていただけだった。明日の朝、佐伯部長にその成果を叩きつける、それだけの為に残業しているに過ぎない。
 もしかしたら、水谷は明日アルバイトが来ることに気を良くして、飲みに誘っているのではないかという思いはあったが、それよりも自分の意地を通したかった。それが、後々後悔することになるなど、その時は思いもしなかった。

 それから、一週間後のこと、下水道課の建築の連中がなにやら騒いでいた。騒ぎを聞きつけ、佐伯営業部長が下水道課のアルバイトに事情を聞いている様子だ。四方田も仕事を放り出してそばに行き、聞き耳を立てた。佐伯がアルバイトの宇津井に確認する。
「午後11時半頃、会社を出て、水谷は一杯引っかけてからサウナに泊まると言ったんだな?」
「ええ、寝坊したんだろうと思って、今朝サウナまで行って来ました。すぐそこですから。でも、マスターに聞いたら、昨日は来ていないと言うんです。携帯もずーっと留守電になっています。で、建築の樋口さんに家に電話して貰ったんです」
佐伯が樋口に視線を向ける。樋口がおずおずと口を開いた。
「ええ、私が自宅に電話しました。奥さんが言うには家には帰って来ていないってことです。前にもあったとかで、奥さんはそれほど心配はしていませんでしたが、心当たりを当たってみると言ってました」
佐伯が困惑顔でうーんと唸った。そして宇津井に視線を向ける。
「今日、成果品を納めるんじゃなかったのか?」
「ええ、そのつもりで、一昨日から徹夜で、昨晩やっと仕上げたんです。ですから、準備は整っています」
「だったら何で失踪したんだ?」
「出来ているのは今日の分だけです。月末納期のものは全く手つかずです」
「そんなことは聞いてない。それより、何か気付かなかったか?そのー、様子がおかしいとか、せっぱ詰まった感じだったとか。奴は追いつめられると精神に異常をきたすんだ。何度も見てきた。でも、失踪したのは今日が初めてだ」
 四方田は失踪と決めつける佐伯に腹が立った。もし失踪だったら、その原因を作ったのはお前を含めた社長一派ではないかという思いがあったからだ。徹夜でも何でもやらせて責任を取らせるという社長の方針に、佐伯も諸手をあげて賛同したはずなのだ。アルバイトの宇津井がためらいがちに口を開く。
「佐伯部長、まだ失踪と決まったわけではないと思います。電車を乗り過ごしたとか、飲み屋でそのまま寝てしまったとか、今日だって、いつものようににこにこ笑いながら出社するかもしれません」
「そんなことは、お前に言われるまでもなく分かっている。最悪の事態を想定しているだけだ。納品は今日の何時だ?」
「午後一時です」
「おい、樋口、水谷が今日出社しなかったら、お前が宇津井と一緒に納品に行ってくれ。しばらくの間、水谷は風邪で倒れたことにしておけばいい。よし、俺は総務と相談してくる。さあ、この件はこれで終了だ。さあ、仕事、仕事」
佐伯がエレベーターホールに向かう。さっそく社長に報告である。
 四方田は失踪など信じたくなかった。きっと現れる。今日出社すると何度も心に念じた。机に向かい、おもむろに携帯を取りだし、改めて水谷を呼び出した。四方田なら出るかもしれないと思ったのだ。しかし、やはり留守電になっている。
 仕事をしながらも、フロアーの自動ドアが開くたびに視線を走らせた。そのたびに期待は裏切られた。水谷のあの笑顔が脳裏に浮かぶ。まさか、自殺?不安がよぎる。そう思っただけで涙が滲む。そんなことあるものかと必死でうち消す。四方田は、その日、家で酔いつぶれた。


 失踪三日目に、総務と水谷の妻が相談して警察に失踪届を出した。そして、さらに一週間が過ぎている。榊原営業本部長と佐伯営業部長のひそひそ声が四方田の耳にも漏れ聞こえてくる。榊原営業本部長の席は四方田の真後ろだし、佐伯部長の席は左後方だから厭でも聞こえてくる。榊原が声を押し殺して言う。
「つまり、手持ちの金がなくなって、銀行で貯金を下ろしたってわけだ」
「それが藤沢ですか?」
「ああ、それから三日後に、御殿場のコンビニで弁当を買っている」
「も、もしかして、富士の樹海?」
「ああ、警察はそれを危惧している。警察は付近の売店やホテルに写真をばらまいているそうだ」
「指名手配ですか。奴も有名人だ」
「馬鹿野郎、変なこと言うな。そうじゃなくとも、下水道課の人事では社内から批判の声が上がっている。兎に角、大事の前だ、言葉を慎め」
 パソコン画面が歪んだ。四方田の脳裏には樹海を彷徨う水谷の姿が浮かんでいた。涙が滲んで視界を遮っていた。やめろー、やめるんだ。頼む、水谷さん、戻って来い。叫び声が、脳内でこだまする。斜め前の真弓がちらりと視線を向け、すぐに逸らせた。四方田はすっくと立ち上がりトイレに逃れた。そしてじゃぶじゃぶと顔を洗った。
 鏡の中の自分の顔がむくんでいる。この十日ばかりの深酒がたたっている。その顔に語りかけた。
「水谷さん、生きてるよね、死んだりしないよね。また、二人して飲みに行こう。僕は、生きていると信じている。だから樹海になんて行くんじゃない。思い留まって、浮浪者でも何でもいい、生きていてくれよ。故郷に帰るのもいい、青春を過ごした金沢でもいい、そのまま歩き続けろ、頼むよ、水谷さん」
気を取り直し、深呼吸を繰り返す。
 ふと、あの場面が脳裏に浮かんだ。嬉しそうに明日アルバイトが来ると言って話しかけてきたときのことだ。残業する四方田に水谷が聞いた。
「まだ、かかりそうなの?」
「ああ、もう少し」
あの時、水谷は四方田を飲み屋に誘っていたのではないかという思いがよぎった。失踪する一週間前のことだ。そう思った途端、涙があふれ出た。もうどうしようもなかった。あの時、誘いに乗っていたら、こんなことにはならなかったのではないか、という思いが四方田を打ちのめした。

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