ケイタイの向こう側の友へ

     

第八章 

 いつもの飲屋街とは反対側の神田駅南口からすぐ近くのその店は、居酒屋というよりレストランに近いため女性客が多く、男一人で待つのは何ともこそばゆい。既に二杯目の生ビールも空になりかけている。四方田に遅れること1時間、ようやく真弓が店に現れた。その顔が幾分緊張気味なのは四方田の今日の精神状態を慮ってのことだろう。誰だって首を言い渡されて普通でいられるはずがない。破れかぶれのどさくさに紛れて部下を取って食おうなんて思っちゃいない、と心の内で毒づいた。
 真弓は席に着くと、さっそくメニューを広げて視線をおとす。
「最初は、生でいいだろう?」
「お願いします」
四方田のジョッキは空に近い。二つ注文を入れる。生ビールが運ばれ、真弓がウエイターにあれこれ注文している。苛々しながら、四方田は自分のジョッキの取っ手を握って注文が尽きるのをまった。真弓がメニューを置いた。待ってましたとばかり、四方田はジョッキを持ち上げた。
「僕の前途に、乾杯」
にこりともせず真弓がグラスを合わせた。四方田は上々の出だしだとほくそ笑む。
「課長は、応じるつもりなんですか?」
「ああ、そのつもりだ。もううんざりだ。この三年間、少しでも生き延びようと、これまでの人生とは比較にならないくらい神経を張りつめてきた。でも、もう限界だ」
「そうですよねー、社長はことのほか課長が嫌いみたいですし、課長の、くそっーていう顔見る度に、よく我慢していると思っていました」
「そうか、やっぱり顔に出ていたか」
「まさか気付かれないとでも思っていたんですか?それこそ甘いですよ。それより、これからどうするつもりなんですか?」
「実を言うと、再就職先がないわけじゃない。以前、友人に今の俺の立場を相談したんだ。そしてらその友人が、もし、どうにも我慢出来なかったら自分の処に来いと言ってくれた。昔の音楽の仲間だ。嘱託で給料は安いらしいけど、幸い子供達は巣立っているし、何とかなる」
「それを聞いて安心しました。私の面接は課長の前だから4時15分からだったでしょう。その前は技術の人達で、あの人達は何にも喋らないから気付きませんでしたが、課長が終わってすぐあちこちから電話が来て、何があったのかようやく分かったんです。本当に何て言っていいのか…」
「人に同情なんかされたくないね。俺は転職に慣れてる。6社目もグレードアップさせてやる。友人のところは最後の最後にとっておくつもりだ」
「課長、頑張って下さい。私も応援します。もっとも声援を送るだけですけど…」
「それだけで十分だ。どうも有り難う」
 上司と部下の心温まる会話はここまでだった。出来るだけ会話を弾ませ、周辺から徐々に核心へ、周到に罠に追い込んでゆく。それが今の四方田にとっての最重要課題だった。会話の方向を社長と四方田の軋轢にもってゆく。
 何度も筋を逸れ、無駄に時間を浪費する。浪費の時間も惜しんではいけない。それが相手を安心させ、口を滑らかにするからだ。しかし、敵もしぶとい。その話題を避けている節がある。時間がいたずらに過ぎてゆく。レコーダーの単四電池を替えたのはいつだっただろうか。いつしか焦燥にかられて心の余裕を失っていった。

 夜がいたずらに更けてゆく。だらだらと続いた会話の隙間に、沈黙が横たわっていた。もう待てなかった。深いため息と共に核心に触れた。
「しかし…、あの時は参ったよ。とは言っても、あの社長の一言で、俺の覚悟も決まったんだ。辞めるしかないってね…」
 煙草の煙を吐き出しながら視界の端に真弓の表情を捉えていた。真弓の表情に変化はない。ただ、グレープフルーツサワーを一気に飲み干した。四方田が追い打ちを掛ける。
「真弓だって、覚えているだろう?あの日のことは」
真弓はどう答えていいのか逡巡しているようだった。生唾を堪えて四方田は反応を待つ。しばらくして真弓が意を決したように口を開いた。
「あの日って?」
四方田は一瞬愕然としたが、気を取り直そうと深く息を吸った。そして、ゆっくりと息を吐き出すと、ことさら何でもない風を装い、顔を緩ませた。
「年末の仕事納めの日だよ。社長と真弓と俺、そうそう、新潟の公団に行っている奥園さんもいた。あの時、社長が言っただろう?」
「何て言ったのかしら?社長」
ここで、四方田は切れた。とは言え、さすがに、惚けるのもいいかげんにしろ、という言葉は飲み込んで、努めて冷静に言った。
「忘れたのか、あんな重大な場面を。あの後、二人で飲んだ時のことだ。君は、社長の言葉に、さすがの私もびっくりって言ったじゃないか。覚えていないのか?」
 呼び名が「真弓」から「君」に代わった。かなり興奮している証拠だ。見ると、真弓は視線をおとし、その表情は強ばっている。四方田は後悔していた。性急すぎたかもしれない。真弓もそのことに触れるのを恐れていたのだ。真弓が視線をあげ、四方田を睨んだ。
「確かに言ったわ。あの時ははっきり覚えていたから。でも、時間が経てば記憶もあやふやになる。あの時は酔っていたし、今みたいに、問いつめられたら誰だって、もしかしたら記憶違いだったのかしらって気になってしまうわ」
四方田は躊躇しながらも更に畳みかける。
「そんな昔の話ではないはずだ。ほんの7ヶ月前、二月に飲んだ時、君はそれを認めているんだ。お願いだから、あの時にあったことを話してくれないか」
真弓がきっと鋭い視線を向ける。
「誰に対して話せというの?課長に?課長に話したとして、それが何の役に立つの?いいわ、課長がどうしても話せというなら、話すわ。確かにあの時、社長の言葉に腹を立てた。でも、それだけよ。社長が何て言ったかなんて覚えていない」
「社長はこう言った。いつか四方田を首にするつもりだ、とね。それを、君はあの時、確かに聴いたはずだ」
「ええ、聴いたわ。確かに社長はそんな風なことを言っていたわ。でも、私は課長の力にはなれないよ。私だって必死なんだから。親父は倒れて入院、お姉ちゃんは失業してる。収入の糧はアタシ一人しかいないのよ。課長はアタシに何をさせようとしているわけ?アタシだって生活がかかっているのよ。課長の力になんてなれっこないよ」
真弓は今にも泣きそうな顔をして四方田を睨み、そして視線を落とした。

 何とも気まずい別れだった。四方田は一人残された。席を立った真弓は振り返りもしない。四方田はレコーダーのスイッチを切った。間違いなく証拠の声は残った。真弓が社長のあの言葉を聴いたと認めたのだから。しかし、このやるせない思いは何なのか?四方田は伝票を取り、立ち上がった。


 東北線の電車の中、レコーダーを耳に当て、ドアの窓ガラスに寄りかかりながら先ほどの会話を再生していた。早送りのボタンを何度も押す。核心の部分にはなかなか辿り着かない。冗長なお喋りが続いている。さらに何度も何度もボタンを押した。嘘っぽい高笑いが何とも寒々しい。耳障りなシュルシュルシュルという早送りの音が更に続く。酔っぱらいの声が聞こえてきた。うわずった声だ。罠に誘い込もうとする卑小な自分がそこにいた。
 ふと寄りかかった窓ガラスに視線を向けた。ガラス越しに自分と目が会った。小賢しさを滲ませた眼、焦燥に喘いでいるみたいな唇、苛立ちに縦縞を刻む額、どれもこれも今の自分の心の有り様が滲み出ている。皆、己の卑小さが作り出したものなのだ。醜い顔だとつくづく思った。四方田は自嘲気味に笑みを浮かべてみた。
「必死こいて、何やってんだ、お前」
ガラス越しの自分に語りかけた。
「騙し討ちもいいとこだ。お前、やはり前世で辻斬りやってたんじゃないのか?何、絶対やってないだって?だったらそんなもん、捨てちまえ。部下を騙して吹きこんだ録音なんだぞ」
ガラス越しの自分が不服そうに頷いて、大きなため息を吐いた。
 どうやら、自分を見失っていたらしい。四方田は、全ての心の拠り所を失った。社長の防波堤になってくれた安西部長は会社を去り、唯一の心の拠り所だった水谷まで目の前からいなくなった。そこにきて突然首を言い渡されたのだ。心の準備など全く出来ていなかった。ぶざまに狼狽え、悪あがきを思いついた。そして走り出すと止まれないという性格が災いして、ここに至れりということだろう。
 ましてや、録音が証拠として採用されるのか?四方田は自らに問う。採用されるということは耳にしたことがある。であれば、録音した声と真弓の声が一致していることを証明しなければならない。ということは、真弓に声紋鑑定を頼むか、裁判で証言して貰うほかない。どの面下げて真弓にお願いするのだ。まったく馬鹿げている。
 「違うんだ」と必死にあらがう声が聞こえる。「社長に一矢報いたかったんだ。失踪した水谷や辞めざるを得なかった人達の仇を討ってやりたかった」
一瞬、その声に聞き入ろうとした。しかし、冷静な自分が答える。「人のためなんかじゃない。自分のために人を騙したんだ」
ガラス越しの自分は押し黙るしかない。なんともやりきれない思いだった。

 ふと、祖母の言葉が浮かんだ。「誰でも自分の身は可愛い。可愛さ余って卑怯、未練に走る。邦夫、そんな男を下げるような真似だけは、してはなんねいぞい」
そんな男を何人も見てきたとも言い添えた。
 今夜のことはまさに卑怯未練にほかならなかった。騙し討ち、辻斬りに等しい。四方田は心の内で呟いた。そうだ。俺はあの婆さまの孫なのだ。だから潔さを心情として生きてきた。潔すぎた嫌いはあったが、それをいまさら後悔はしていない。
 思えば、会社での人間関係を自ら招いたのか、或いは運命の悪戯なのか判然としないが、社長とそりが合わないというのは事実なだ。だとしたら辞めることが自然の流れなのかもしれない。運命がそれを促している。じたばたせずその流れを受け入れよう。そう思った。
「その通り、何も恐れることなんて、ね(ない)。五回も六回も同じことだ」と言う婆さまの声が聞こえたような気がした。婆さまも運命に翻弄された口だ。四方田はにこりとして、おっしゃる通りです、婆ちゃん、と呟いた。
 そして決めた。ここも潔く去ろう。今までそうしてきたように。そう決意すると、レコーダーの削除ボタンを躊躇なく押した。機械がよろしいですかと聞く。馬鹿なことを聞くなと、すぐさまイエスボタンを押す。自分の卑小さとおさらばしたような気がした。

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